日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

プロメア/PROMARE(2019年)

プロメア/PROMARE(2019年)監督:今石洋之

★★★

 

確かに面白いのだが


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○あらすじ

突然変異で誕生した新人類「バーニッシュ」により、世界の半分は焼失してしまった。後に「世界大炎上」と呼ばれる大災害から30年、社会ではバーニッシュの過激派「マッドバーニッシュ」の火災活動が問題視されていた。対バーニッシュの特殊部隊「バーニングレスキュー」に所属する新人隊員のガロ・ディモス(松山ケンイチ)は、鎮火活動の最中、マッドバーニッシュの首領リオ・フォーティア(早乙女太一)と衝突する。

見事リオに勝利し、共和国司政官であるクレイ・フォーサイト堺雅人)から表彰を受けるガロ。だが首領であるリオが逮捕されたにもかかわらず、政府によるバーニッシュ弾圧は一層強まっていく。悩みつつも活動していたガロは、収容所から逃亡したバーニッシュたちと山奥で遭遇する。彼らの口から聞かされたのは、政府、そして恩人であるクレイが、バーニッシュを非人道的な実験に巻き込んでいるという話だった。…

 

 

 

『プロメア』は2019年公開の日本アニメ映画だ。監督は今石洋之、脚本は中島かずき。『天元突破グレンラガン』や『キルラキル』などで知られる黄金コンビだ。火を消す消防隊の主人公と、炎を放つ新人類のライバルが繰り広げる対立と共闘を描いた作品だ。消火活動といいつつ実態は巨大ロボットアニメで、主人公らは巨大ロボット、ライバルらは変身スーツのようなものを着込んで戦闘する。

戦闘シーンのアニメーションはことごとく色鮮やかで、劇中のBGMも素晴らしい。蛍光色中心のキャラクターたち、炎の描写はそれ単体で楽しめるレベルに達している。予備知識なく観始めた作品だが、とても楽しめた。週末にふらっとみる映画としては一級品の仕上がりだろう。

 

 

 

物語のテーマや構成、人物関係もわかりやすい。

主人公はライバルと信条の違いで対立し、尊敬していた恩人は思いもよらぬ行動を選択する。「炎」として存在する脅威や、本来ともに戦うべき立場の政府と戦い、勝利する。ロボットアニメらしく新兵器はどんどん出てくる。そして世界最大の危機がやってきて、主人公は仲間やライバルと協力して、勝利する。お手本のような構成だ。

 

 

 

 

今石・中島がタッグを組む作品では、熱血や情熱といった「勢い」が魅力となっている。綿密に練り上げた世界観で、造形をしっかり固めたキャラクターたち。彼らが交流し、対立すれば、何らかの問題が起こる。時に解決しきれない深刻な事件が起こる。

ネタバレになるのでぼやかすが、『プロメア』でも世界にとって深刻な脅威が発生する。主人公のガロとライバルのリオは協力して解決にあたるのだが、そのままでは力が及ばない。したがって、今石・中島による「勢い」が必要になる。作品中、それまでのパワーバランスを無視するかのような超パワーが生まれてくる。

 

 

 

超パワーは作品中の問題をすべて解決する。地球の環境を揺るがす大災害や、的人物の狂気を、まるでなかったことにしてしまう。作中で「デウスX(エックス)・マキナ」と名付けられたロボットは、結果的に『プロメア』のあらゆる課題を解決して、人類の新たなステージをもたらしてしまう。

誤解しないでほしいのだが、赤宮自身、超パワーが大好きだ。特にロボットアニメの超パワーは大好物だ。マジンガーZEROの因果律すら支配する超パワーが好きだ。ゲッターエンペラーが持つ誰にも勝てなさそうな超設定が好きだ。

 

 

 

けれど『プロメア』が人種差別を克明に描いたことを考えれば、手放しで喜べないところがある。

炎を操る「バーニッシュ」は差別を受ける側の人間として描かれていて、彼らの受ける仕打ちは、観ていてとても痛々しい。街の住人は「バーニッシュの焼いたピザなんて食えるか」と吐き捨て、ピザを焼いた無垢なバーニッシュはやがて政府の犠牲になる。

このあたりのシーンを見て感じた不快感、違和感を、超パワーで解決してしまっていいのかと、強く感じてしまったのだ。繊細な不安をエンタメでごまかしていいのか。「勢い」で解決してしまっていい問題だったのか。

もちろん一見しただけなので、上の批判についても、自分が見落としている部分が多いのかもしれない。細かい設定を読めば、腑に落ちるのかもしれない。 

 

 

『プロメア』はエンタメとして一級品だ。観ていてとても楽しい作品だった。それでも、鑑賞後の違和感が少し残った。

 

 

 

2021/08/29

マディソン郡の橋/The Bridges of Madison County(1995年)

マディソン郡の橋/The Bridges of Madison County(1995年)監督:クリント・イーストウッド

★★★

 

一瞬の思い出を糧に、一生を生きる


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○あらすじ

1989年の夏、アイオワ州の主婦フランチェスカ・ジョンソン(メリル・ストリープ)が亡くなった。葬儀のために故郷に戻ってきた二人の子供は「ローズマン橋から自分の遺灰を撒いてほしい」という遺言に困惑する。手がかりを探してフランチェスカの遺品を調べると、普通の主婦だったはずのフランチェスカが経験した愛の物語が見えてきた。

1960年代、平凡な日々を送っていたフランチェスカだったが、夫と子どもたちが所用で4日間家を離れ、一人きりで過ごすことになる。家事に追われて無為な時間を過ごしていたところ、家の前に一台の車が通りかかる。車を運転していた男は、カメラマンのロバート・キンケイド(クリント・イーストウッド)。彼がローズマン橋への道を尋ねたことをきっかけに、二人の間に思いもよらぬ物語が生まれていく。…

 

 

 

マディソン郡の橋』は1995年製作のアメリカ映画で、監督はクリント・イーストウッドイーストウッドは主演と製作も兼ねており、相手役にメリル・ストリープを迎え、中年の男女の純愛物語を見事に描いた。

イーストウッドの作品の中でも代表作として名高く、批評的にも興行的にも大成功を収めた。平凡に生きた人間にも、輝くような人生の瞬間がある。普遍的テーマと、主役二人の繊細な演技が見どころだ。

 

 

 

コメンタリーによると、当時ですら「古臭い」大人のラブストーリーだ。制作陣は1940年代のようなラブ・ストーリーを意識していたようで、とにかくドラマ、ドラマ、ドラマ。余計な撮影効果や演出に頼らず、主演二人の表情をしっかりと撮り、言葉で愛の物語をつないでいく。

もちろん序盤で明かされている通り、二人の愛の物語は実を結ばない。観客にとって二人の関係性がどうなるかではなく、二人がたどった道筋、どのように対話し、どうやって終わっていくのか、その過程にフォーカスしている。キャラクターの背景はともに異なり、男と女の考えることも異なる(1960年代の男女という時代性を踏まえれば当然だろう)。

旅を続けてきた男と、家庭に身を捧げた女性。二人の夢はともにかなわない。現在進行形で生きる二人の人間が、かなわない夢と知りながら生きる感覚、どんなに残酷だろう?そして叶わなかった物語を抱えながらその後も生きていく切なさ。

 

 

 

それでも人生には輝くような瞬間がある。ロバートは「数日で一生は生きられない」と話したけれど、結果として数日で一生を生きる足跡を作品として遺した。

目を瞑るだけで思い出せるような、人生の輝くような瞬間。価値観のふるいをくぐり抜けて、自分にとってはこれしかないんだと確信しながら、全身で、一生を数日として受け入れる瞬間。はちきれるような幸せをがぶりと味わって、ああアレは良かったなと思いながら、不器用に死んでいく。それはどんな人生なのだろう。残念ながら、平凡な赤宮には想像もつかない。

 

 

 

マディソン郡の橋』は、一言でまとめれば「通りかかったカメラマンが、平凡な主婦と恋愛をする」だけの物語だ。

残忍な殺人事件は起こらず、未確認生物は現れない。(イーストウッドにありがちな)ライフルを抱えた屈強な男も出てこない。

けれども、これも映画だ。1940年代の、映画の黄金時代を彷彿とさせるような、見事なラブストーリーだ。

2021/8/28

座頭市/Zatoichi(2003年)

座頭市/Zatoichi(2003年)監督:北野武

★★★★★

 

俺たちが観たかったタップダンス


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○あらすじ

盲目ながら凄腕の剣客、市(北野武)がとある街にやってきた。百姓女のおうめ()と知り合った市は、賭場で彼女の甥である新吉(ガダルカナル・タカ)と知り合う。博打で大勝ちした市と新吉は芸者の姉妹に殺されそうになるが、身の上を尋ねたところ、彼女ら二人は街を支配する銀蔵一家に恨みをもっていることが分かる。

日を改めて後日。相変わらず博打に興じていた市だが、相手のイカサマを見抜き、ヤクザをばったばったと斬り殺してしまう。この出来事をきっかけに、市は賭場を運営する銀蔵一家に目をつけられてしまうのであった。…

 

 

 

座頭市』は2003年製作の時代劇映画だ。監督は北野武、11作目。勝新太郎が築いた傑作『座頭市』シリーズをリスペクトしながら、北野らしいコメディを随所に散りばめた傑作になっている。

 

 

 

北野の『座頭市』について、物語や構成で語るべきところは少ない。流れ者の市が街にやってきて悪人を倒す。勧善懲悪の時代劇ストーリーだ。強いていうなら市の背景についてだろうが、終盤に断片的に語られるだけだ。ネタバレを避けるためにも、ここでは触れない。

さて、では何が北野『座頭市』を傑作に育てたのか。リメイクにあたって北野が加えたのはリズムと音楽だ。農作業や大工仕事の動作に合わせて音楽をシンクロさせる(いわゆる「音ハメ」)。真剣勝負の場面に一見似つかわしくない音がちょこんと入る。『座頭市』に音楽の要素をふんだんに取り入れることで、北野は勝新太郎の築いた巨塔に対抗する形だ。

北野武が浅草の見習い時代にタップダンスを熱心に学んだことはよく知られている。芸歴を重ねてからもその技術は衰えず、抜群の映画センスと併せて上質なエンターテインメントを演出することを可能にした。


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ところで、タップダンスといえば。2021年夏の東京五輪開会式。突然やってきた大工集団が、なんともコメントしづらい、学芸会のようなタップダンスを披露していた。


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思うに、あのタップダンスの元ネタは『座頭市』だ。北野武ビートたけし)は後日自身の冠番組で苦言を呈していたが、自分のネタが雑にパクられてしまったことへの怒りがあったのではなかろうか。

時代劇という性質上、タップダンスを全面的に取り入れることはできない。可能であるとすれば、それは観客と作品の距離感がごちゃまぜになる瞬間、つまりクライマックスのシーンのみとなる。

平和を取り戻した街の「祭」を祝うにあたって、陽気で楽しいタップダンスは驚くほどマッチしている。あの山本耀司が手掛けた農民の衣装もあわさり、ラストのダンスシーンの美しさは眼を見張る。赤宮は『座頭市』を時代劇とは考えていない。ビートたけし北野武らしく、観客を楽しませることに徹した最高のエンターテインメントだと思う。


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2021/08/27

21グラム/21 Grams(2003年)

21グラム/21 Grams(2003年)監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

評価:★★★★

 

人生はいつ終わるのか


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大学で数学を教えるポール(ショーン・ペン)は深刻な病を患っており、余命一ヶ月で心臓のドナーを待っている。専業主婦のクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)は建築家の夫と二人の娘と穏やかで幸せな日々を過ごしている。そして前科者で敬虔なクリスチャンのジャック(ベニチオ・デル・トロ)は、信仰をきっかけに犯した罪から立ち直り、社会復帰して働こうともがいていた。

全く関係のない3人だったが、ジャックが悲劇的な交通事故を起こしたことで、それぞれの人生が一気に交差する。神を信じたにもかかわらず罰を受けたジャック、大切な人を失ったクリスティーナ。そしてポールは事故がきっかけとなり新たな生命を得た。周りの人びとは「それでも人生は続く」と言う。けれども、本当の意味で人生が終わるのはいつなのだろう。…

 

 

 

『21グラム』は2003年製作のアメリカ映画だ。監督は『バードマン』『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。脚本はデビューから『バベル』までタッグを組んだギジェルモ・アリアガが担当している。

イニャリトゥ監督のキャリア初期の作品だが、ある人物から他の人物へ、過去から未来へ、時間も場所も関係なく話をつないでいく同監督らしい作風は既に確立されている*1

 

 

 

もちろんこうした作風は、1994年のクエンティン・タランティーノ監督『パルプ・フィクション』から始まる、物語を直線的に進めない構成の影響を強く受けているのだろう。同作品から2000年のクリストファー・ノーラン監督『メメント』まで、脚本の構成を「めちゃめちゃ」にして観客にインパクトを与える手法が当時大流行していたらしい。

『21グラム』は『パルプ・フィクション』から約10年後の作品ということもあり、時間や場所はさらに目まぐるしく、ダイナミックに動き続ける構成を採用する。例えば、ある1分程度のシーンを20秒ずつ分割し、最初の20秒を流した後一気に違う場面に転換する。新たなシーンもすぐに別の時間軸に移動する。私たちは細切れの意味ある映像をただ観続けている。

何が起こって、なぜ彼や彼女は怒っているのか。さっきまで寝たきりだったはずの男は、なぜ元気に女性を口説いているのか。その原因は後で語られるかもしれないが、もしかすると既に語られたものかもしれない。本当ならわかりやすいはずの因果関係は、説明の順番を入れ替えることによってわかりづらいものになっている。

 

 

 

なるほど、『21グラム』は意図的に、直感的な理解を拒んでいる。複雑な構成ながらメインの粗筋は理解しやすく、「人生はいつ終わるのか」というテーマも明確だが、細部に散りばめられたサブシナリオや所作の理解についてはやんわりと拒絶する。真の意味で作品を理解するためには時間軸に沿った再構成が必要だ。

さて、一番初めに映るオープニングシーンも、作品の時間軸で最終盤に位置する場面だ。インパクトのあるショットから物語が展開し、登場人物にとっては自明だが、観客には分からない「あの事件」が徐々に明らかになる。一つ一つの語り口は冷たく暴力的で、観ていて胸が締め付けられる思いがする。

 

 

 

3人の主人公はそれぞれ違うあり方で人生に苦しんでいる。周りの人びとは無責任に「それでも人生は続くんだ」と語りかけるが、主人公たちは「自分の人生は終わった」と心のどこかで感じている。

『21グラム』は一つの心臓をめぐる物語だ。「人生はいつ終わるのか」というメインテーマも見応えがあるが、個人的にはジャックの信仰と罪をめぐる葛藤や、人工授精についてのポールと妻の対立といったサブシナリオにいっそう魅力を感じた。ただ、先に触れたとおり、イニャリトゥ監督以下『21グラム』の制作陣は、サブシナリオが理解しづらい構成をあえて採用している。

監督たちの照れ隠しなのだろうか。それとも、大切なことは、気付かれないように語る、ということなのだろうか。

2021/08/26

*1:この特徴に関しては編集を担当したスティーブン・ミリオン(『バベル』『バードマン』、『ハンガー・ゲーム』)の貢献が極めて大きい

ダンス・ウィズ・ウルブズ/Dances with Wolves(1990年)

ダンス・ウィズ・ウルブズ/Dances with Wolves(1990年)監督:ケビン・コスナー

 

人生を捨てる、そして生まれ変わる


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1960年代、南北戦争時代のアメリカ。脚に深い傷を負った北軍中尉、ジョン・ダンバー(ケビン・コスナー)は、手術で脚が切断されることを悲観している。ダンバーは痛みを堪えて戦場にたどり着き、意を決して馬に乗る。死ぬことを半ば望んでいたダンバーは戦場を駆け巡り、傍から見れば無謀な動きではあったが、意図せずして北軍の囮として大戦果を挙げてしまう。対価として十分な治療を受け脚は回復、次の駐屯地への希望も叶えられてしまった。

ダンバーは「失われる前にフロンティアを見たい」と話し、サウスダコタ州の荒野にある無人の「砦」に赴任する。自給自足の生活をしながら、馬のシスコと狼の「トゥー・ソックス」と触れ合い、戦地での傷を癒やしていく。だがある日、ダンバーが池で水浴びをしていると、現地のインディアン「スー族」が馬を盗もうとする場面に遭遇してしまう。…

 

 

 

ダンス・ウィズ・ウルブズ』は1990年公開の西部劇映画だ。南北戦争時代のフロンティアを舞台に軍人とインディアンの交流を描いた作品で、監督は『フィールド・オブ・ドリームス』などでしられる俳優のケビン・コスナー

「二枚目俳優が監督を務める」ということ下馬評は高くなかったというが、結果的に同年のアカデミー賞を獲得、興行収入的にも大成功を収めた。本作品をきっかけにケビン・コスナーの名声は高まり、俳優としてのキャリアに加え、監督や制作でも評価を得る存在となった。

 

 

 

本作のオープニングシーンはコスナー演じる主人公ダンバーが脚を手術する場面から始まる。劇中で語られることはないが、戦時中何らかの要因で負傷したダンバーは、衛生環境の悪い野戦病院で目を覚ます。「脚を失うくらいなら」と強い思いで病院を抜け出し、戦場に飛び出て、自殺行為にも思える乗馬で銃弾飛び交う平原を駆け巡る。

ダンバーが南北戦争について苦しい思いを抱いていたのは間違いない。ダンバーの行為は結果として戦いの勝利に貢献し、皮肉なことに英雄として「名誉」を与えられてしまう。だが彼が次の赴任地として希望するのは未開のフロンティアだ。自分の名前や名誉、戦争の匂いから逃れ、失われつつある「何か」を求めてフロンティアに向かう。

 

 

 

ダンバーはそこでインディアンたちと出会った。初めは敵意を抱かれていたが、部族の女性を救ったことがきっかけに交流を持つようになり、やがて仲間の一人として認められるようになる。

インディアンたちには名前がなく、それぞれが「蹴る男」「拳を握りしめる女」といった呼び方をされている。バッファローの狩り、そして異民族との戦いを経て尊敬を得るようになったダンバーの呼び名は、「狼と踊る男(ダンス・ウィズ・ウルブズ)」。

 

 

 

ダンバーはフロンティアでかつての名前を捨て、軍服を着なくなり、制帽をインディアンにあげてしまう。インディアンとの交流で彼は少しずつ「北軍中尉」としての立場や過去を捨て、民主主義や自由といった大義のために生きる態度を捨て去っていく。そこにいるのはただ一人の「狼と踊る男」。異民族と戦った理由も大義のためではなく、一緒に生活する仲間を守るためだった。

 

 

 

季節が変わり、インディアンのスー族は住む場所を変えるべく移動を始める。もちろん同行しようとする「狼と踊る男」だったが、かつて住んでいた「砦」に重要な忘れ物をしてしまったことに気づく。久方ぶりに「砦」に戻った「狼と踊る男」を待っていたのは、フロンティアを開拓すべくやってきた北軍の軍人たちの姿だった。

軍人たちは馬や狼を殺し、さらにはインディアンの風貌をした「狼と踊る男」を捕まえ縛り上げてしまう。インディアンの通訳として働けという申し出を断り、裏切り者として司令部に輸送されていく。

 

 

 

かつては軍隊で英雄だった。今や身も心もインディアンとなりつつある「狼と踊る男」は、葛藤の中でどのように答えを出していくのか。インディアンの歴史が語るとおり、本作は決してハッピーエンドではない。それでも、少し希望を残すような『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のエンディングが、私は好きだ。

 

2021/08/25

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)/ Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance) (2014年)

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)/ Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance) (2014年)監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

 

ワンカットがもたらす時間感覚の崩壊


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かつてハリウッド映画『バードマン』で一斉を風靡した老齢の俳優リーガン(マイケル・キートン)。以降はヒット作に恵まれず、20年が経過した現在は私生活も仕事もうまくいかない。妻とはすでに離婚し、娘は薬物中毒に苦しんでいる。当のリーガン自身も、自らの分身である「バードマン」、つまり心の声に嘲られる幻聴に苦しんでいた。

再起を期してブロードウェイに進出するリーガンだが、理解者であるジェイク( ザック・ガリフィアナキス)を含め、リーガンの成功を本気で信じているようには思えない。負傷した俳優の代役として起用したマイク(エドワート・ノートン)はトラブル続き、他の出演者たちともそれぞれトラブルを抱える。「アーティスト」の理想と「落ちぶれた有名俳優」である自分とのギャップに苦しむリーガンは、「バードマン」の声に抗いながら、舞台の本番に向けて準備を進めていく。…

 

 

 

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は2014年公開のアメリカ映画で、監督は『21グラム』『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。以前当ブログでも『バベル』を取り上げたことがあるが、主観と客観のズレ、文化間のディスコミュニケーションなど、人間の繊細なやりとりを描くことに定評がある監督だ。

監督がメキシコ出身ということもあり、ハリウッド・ブロードウェイをとことん批判する内容を含んでいるが、『バードマン』は2014年のアカデミー賞で作品賞など4部門を受賞。虚実が入り混じり、とことん練り込んだ物語構成は、批評家や一般観客を含めあらゆる観客を虜にした。

 

 

 

『バードマン』で最も有名なのは「全編ワンカット」だろう。実際には「全編ワンカットに見える」というのが正しいのだが、長回しと編集技術を駆使し、まるですべての撮影を一度に終えているような印象を与える。継ぎ目なくなめらかに進む映像は観客の集中力を保ち、次の展開、次の展開へと興味をひきつけていく。

撮影監督を担当したのは『ゼロ・グラビティ』でも撮影を担当したエマニュエル・ルベツキ。同作でも宇宙空間のシーンを多く撮影したが、その技術は『バードマン』でもふんだんに生かされている。ちなみに同作でアカデミー撮影賞を受賞している。

 

 

 

ただし、『全編ワンカット』に挑戦した作品はそれなりにある。古くはヒッチコックの『ロープ』が殺人事件をめぐる犯人と探偵役のやり取りを全編ワンカット(に見える)方式で展開している。近年では2019年の『1917 命をかけた伝令』も大規模な戦争シーンをワンカットで描いたことで話題を集めた。

これらと比べて『バードマン』が素晴らしいのは、「全編ワンカット」という構成を単なる技術自慢に留めず、作品全体の雰囲気と極めてうまくマッチさせている点だ。

 

 

 

先に触れたとおり、『バードマン』は虚実入り交じった作品だ。主人公の現実と妄想が特に説明なく交互に展開し、一つの会話が終わったと思うと、次の瞬間には時間が飛び、全く違う会話が始まっている。現実と虚構の境目は薄く、ある場面と次の場面での時間の境目すら取り払う。

『バードマン』はワンカットで異なる時間の場面を撮影してしまう。主人公とプロデューサーが口喧嘩をした場面からカメラが動くと、そこにはマスコミの取材を受ける主人公の姿がある。私たちが数十秒の同じ映像を見ている間に、作品の中では数十分から数時間経過している。

こうした時間の移動は通常、編集技術によって、つまり映像をカットして転換することによって実現するわけだが、『バードマン』はあえて同じ映像のままシームレスに時間を移動する。観客は「いつのまにか時間が経過している」感覚に襲われる。

私たちの感覚には、数十秒経過すれば、画面の中でも数十秒経過しているはずだという常識が存在する。それが『バードマン』では覆されてしまうわけだ。

 

 

 

この時間のズレが、観客の持つ時間や現実の感覚をどんどん揺らしてしまう。「バードマン」と語る主人公は妄想に苦しんでいるはずだけど、果たして本当にそれは妄想の存在なのか?主人公はメソッド演技法でレイモンド・カーヴァーの作品に没入しているはずだけれども、彼の人生はどこまでが真実で、どこまでが演技なのだろうか?

『バードマン』はラストシーンで賛否が大きく分かれた作品だが、私自身はあのエンディングにおおいに納得している。というより、あのエンディングしかないだろう、とすら感じる。

 

 

 

『バードマン』はハリウッド大作としての体裁を保ちつつ、見るものの心を揺さぶる芸術性を備えた傑作だと思う。

 

2021/8/24

恋愛小説家/As Good as it Gets(1997年)

恋愛小説家/As Good as it Gets(1997年)監督:ジェームズ・L・ブルックス

 

完璧な男ではないけれど


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メルヴィン(ジャック・ニコルソン)はマンハッタンに住むベストセラー小説家。小説では女心を見事に表現するのだが、実際の彼は偏屈でとっつきにくい中年男性だ。極度の潔癖症、いつも同じ店で同じ食事、道路のへりを踏まないなど、自分のルールを絶対に譲らない。そして思ったことをすぐに口にしてしまう皮肉屋でもあり、その毒舌は隣人や仕事相手らをいつも怒らせていた。

ある日、隣人のサイモン(グレッグ・ギニア)が強盗に襲われ、重傷を負ってしまう。メルヴィンは成り行きで、サイモンの飼い犬バーデルを預かることになってしまった。潔癖症でペット嫌いのメルヴィンだったが、バーデルと触れ合いその可愛さに魅了されていく。そして犬の話題がきっかけとなり、レストランのウェイトレス、キャロル(ヘレン・ハント)とも親しく話すようになる。…

 

 

 

『恋愛小説家』は1997年制作のアメリカ映画で、主演は名優ジャック・ニコルソン強迫性障害を持つ中年男性とシングルマザーの不器用な恋愛を描いた作品で、繊細な台詞回しと穏やかな物語性で評価を集めた。ジャック・ニコルソンと相手役のヘレン・ハントは、本作で1997年のアカデミー主演男優賞・女優賞を獲得している。

 

 

 

とまあ、いつもの流れに沿ってあらすじと概要を話してみたが、この作品は「見ないと伝わらない」映画だ。劇的な事件も壮大なCG処理も存在しない、正統派のドラマ作品だ。とはいえ単に見ろ見ろというだけでは日刊映画日記を書く意味がない。

実際に『恋愛小説家』を見れば、開始直後からインパクトあるシーンの数々に驚くはずだ。隣人の飼い犬に尿を引っ掛けられたメルヴィン、なんと激怒して犬をダスト・シュートに放り込んでしまう(!)。犬を探す隣人には悪びれるどころか暴言を浴びせまくる始末。オープニングシーンの行動はことごとく破天荒で、作品を見る者すべての共感を跳ね飛ばす勢いだ。

メルヴィンがレストランにいってもその振る舞いは変わらず、先客をテーブルから追い出し、持参したプラスチックの食器で食事し、いつもと同じメニューを注文する。マンハッタンで小説家として活動するあたり才能ある作家であることはわかるものの、それぞれの行動はやはり奇妙で、主人公ながら共感しづらい人物として提示されている。

 

 

 

しかし、そんなメルヴィンにも転機が訪れる。隣人の飼い犬を預かったことだ。初めのうちはいやいや世話をしていたが、ピアノの演奏や散歩で心の交流が深まり、隣人が退院する頃には犬のバーデルを溺愛するようになっている(かつてダスト・シュートに捨てた犬なのに!)。そして隣人に犬を返す前日、メルヴィンは別れを惜しんで一人涙を流す。これまで共感の対象でなかったメルヴィンが、観客にとって「分かるわ…」と同情を得る瞬間だ。

 

 

 

世間に馴染めない不器用な中年男は、可愛い犬、バーデルというきっかけで変化した。成長を期待されていなかった主人公は、犬の飼い主であるサイモンや、ウェイトレスのキャロルとも交流を始める。

 

 

 

けれども、言葉を理解できない犬のバーデルとは異なり、サイモンやキャロルたちは生身の人間だ。

知性があり、頭が良いがゆえに、切れ味鋭い皮肉を思いついてしまうメルヴィンは、その後も自分の言葉で多くの人々を傷つけてしまう。中でも彼が思いを寄せるキャロルは、投げかけられた言葉に素直に傷つき、正しく怒る純粋な女性だ。

 

 

 

あなたの周りにも居ないだろうか。学歴が良かったり、いい会社に勤めていたりして、頭の回転がとても速い友人。物事の本質をがぶりと掴むことができて、自分の思いをすぐに口にしてしまう友人。悩み事を相談すると、一足とびに解決策を提示してしまって、それを実現しないあなたは馬鹿だねと微笑む恋人。

頭が良くて不器用な人間はどうしようもないところもあるけれど、メルヴィンが悩み、悲しんでいるように、彼や彼女らは案外、家に帰ってから一人で黙って反省している。ときには「どうしてあんなことを言ったのだろう」と、周りが想像している以上に一人で猛烈に後悔している。

 

 

 

犬のバーデルとの交流で自身の性格を改めたように、一見すると破天荒なメルヴィンには、人に愛されたい、よりよい人間になりたいという思いがある。オープニングで破天荒だった人柄は物語が進むにつれて薄れていく。完璧でないことを認め、周囲と少しずつ向き合おうとする等身大の中年男性の姿が、そこにある。

 

 

 

“You make me want to be a better man.”

「君のおかげで、もっとましな人間になりたくなったんだ」

 

 

 

恋愛小説家としての言葉遣いが、素直な気持ちと結びついた瞬間だ。

 

2021/08/23