日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還/The Lord of the Rings: The return of the King(2003年)

ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還/The Lord of the Rings: The return of the King(2003年)監督:ピーター・ジャクソン

 

三部作の結末を描く物語


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「一つの指輪」を葬るべく、長い旅を続けるホビット族、フロドとサム。案内役のゴラムに導かれ、故郷から遠く離れた暗闇のモルドールの山にたどり着いた。指輪をかつて所持していたゴラムは、自らの邪心に抗いきれず、フロドから指輪を奪う素振りを見せるようになる。警戒心を強めていたサムだが、モルドールの過酷な環境とゴラムの謀略により、逆にフロドの信頼を失ってしまう。

その頃、人間の王の末裔であるアラゴルンは悪の魔法使いサルマンの砦に到着する。かつて攫われたホビット族のメリーとピピンとの再会を喜ぶ一方で、サルマンが残した石「パランティーア」を通じ、邪悪な冥王サウロンの軍がゴンドール国に向かっていることを知る。アラゴルンに同行していた善の魔法使いガンダルフは、ピピンを連れてゴンドールの首都に向かうが、そこで待っていたのは息子の死を知り狂気に駆られた執政、デネソールだった。…

 

 

 

ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』は2003年に公開されたファンタジー映画だ。イギリスの国民的ベストセラー小説『指輪物語』を全3部で映画化した第3作であり、『旅の仲間』『二つの塔』で展開されてきた「指輪」をめぐる物語の完結作だ。

時間軸としては『二つの塔』完結直後から始まっており、前2作を鑑賞していることが前提となっている。「これまでのあらすじ」といった初心者向け要素もない。上映時間が3時間を超える超大作だが、物語のほぼ全てが三部作の「結末」として機能している作品だ。

 

 

 

王の帰還』の特徴は、作品を通じて「結末」を描きつつ、一方で作品単独としても見応えがあることだ。

先に述べたとおり『旅の仲間』『二つの塔』の鑑賞が前提となっているが、『王の帰還』は単に前二作の「結末」としてだけではなく、それそのものとして「発端」「中盤」「結末」という物語の構造を内包している。主要キャラクターの「結末」をそれぞれ描く一方で、「結末」を描写するそれぞれのシナリオは独立して物語の構造を作っている。

 

 

 

二つの塔』から続くフロド・サム・ゴラムの関係性は厳しい旅の環境を通じて完結していく。登山の中でゴラムの甘言はフロドとサムの信頼関係を崩し、他方で新たな障害を通じて二人の関係は回復する。仲間を信じ続けた者、裏切った者、それぞれにふさわしい結末が用意され、物語は終局に至る。このサブシナリオの書き方がとにかく上手い。山登り、とっくみあいの喧嘩、洞窟や塔での戦い、それぞれが一つのシーンとして完成している。どこを切り出しても短編の冒険映画として成立しそうだ。

一つ一つのシーンがしっかり存在感を示しつつ、全体の一部分として役割を果たす構造は見事というしかない。フロドやサムのメインシナリオだけでなく、アラゴルンを中心としたサウロン軍との戦争シーンも驚嘆の一言。繊細な人間関係を描く一方で、大規模な戦闘シーンをマネジメントし、タテヨコにスケールが大きい物語に結実させている。

 

 

 

もちろん内容としては王道中の王道、悪くいえば遊びのない脚本だ。しかし一つの作品としての構造性を保ちつつ、三部作の大きな物語の結末を描いた手法は、ハリウッドの大規模作品でしかできないダイナミックな感覚に溢れている。王道を王道としてまとめきるのは、見た目の数百倍難しい。その難題をサラリとこなした『ロード・オブ・ザ・リング』に拍手を贈りたい。

 

 

 

 

2021/8/21

 

 

アメリ(2001年)

アメリ/Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain(2001年)監督:ジャン=ピエール・ジュネ

 

あの人も不器用だったのだろうか

 


Amélie (2001) Official Trailer 1 - Audrey Tautou Movie

 

1973年9月3日18時28分32秒、毎分1万4670回ではばたく1匹の羽虫が、モンマルトルの路上に留まった。その時、丘の上のレストランでは、一陣の風が吹いて、魔法のようにグラスを踊らせた。同じ時、トリュデーヌ街28番地の5階で、親友の葬儀から帰ったコレール氏が、住所録の名前を消した。また同じ時、X染色体を持つ精子が、ラファエル・プーラン氏の体から泳ぎだし、プーラン婦人の卵子に到達した。9ヶ月後、アメリ・プーランが誕生した……

 

アメリ』は2001年公開のフランス映画だ。パリの街を舞台に、奇妙な登場人物たちが営む不器用な日常を美しく描いた作品で、フランス国内だけでなく日本でも大ヒット。配給を担当したアルバトロスは本作の収入で「アメリビル」を建てたとも言われている。

ストーリーは妄想癖のある若い女アメリオドレイ・トトゥ)が、周囲のおかしな人びとと関わる中で成長していくというもの。コミュニケーションが決して得意ではない人物たちが、笑い合い、からかいあい、ときにけんかしながら時間を過ごしていく光景は、ジュネによる天才的な画面構成と合わさって言いようもない魅力を放つ。物語の後半では主人公のアメリが、意中の男性ニノ(マシュー・カソヴィッツ)に向き合おうとする、なんともきゅんきゅんする若き女性の心的葛藤が細やかに描かれている。

アメリ』を見る上で印象的なのは、主人公のアメリによる数々のいたずらシーンだ。ある出来事をきっかけに「人を幸せにすること」に喜びを感じるようになったアメリは、不倫相手と駆け落ちした夫を持つ女性に偽の手紙で慰めを与え、意地悪な人間をこらしめるべく家宅侵入し、男女に本当ではない愛情を伝え縁を取り持つ。

生来の家庭環境ゆえ、「世界との関わり方がわからない」。他人と関係を結ぶことができないアメリにとって、「いたずら」は他人と関わる手段なのだ。

 

ただいたずらができても、アメリはコミュニケーションがやっぱり苦手だ。自分が幸せになるために、自分自身への「いたずら」を選んでしまう女の子だ。不器用だから、意中の男性に話しかけるチャンスを得ても、一歩踏み出すことができない。向こうから話しかけられても、人違いですよと返答してしまう。

話しかける勇気がないから、自分と意中の男性に対して「いたずら」する。アメリは2人が出会うシチュエーションを作り、2人が話せるシチュエーションを作る。2人が結ばれるシチュエーションを見据えて「作戦」を組み、傍からみればなんとも回りくどい方法で場面づくりに勤しむ。

けれども、ロマンスは生まれない。コミュニケーションによる働きかけができないアメリは、顔をしかめてチャンスを逃し続ける。

 

他人の人生を動かすように、自分の人生を客観的に動かすことしかできないアメリ。戦略を立て、論理的なストーリーをつむぎ、その通りにロマンスを生み出そうとしても、最終的に行動するのは自分自身なんだということを、彼女は何度も痛感する。

 

「まさに現実との対決、アメリはそれが苦手だった!」

アメリの自由だ。夢の世界に閉じこもり、内気なまま暮らすのも、彼女の権利だ。人間には人生に失敗する権利がある」

 

 

 

私がまだ映画に目覚める前、瀧本哲史先生と、一度だけ映画の話をしたことがある。

 

アメリ』がお気に入りですと、話していた。

 

 

アメリ(字幕版)

アメリ(字幕版)

 

 2019/8/17

天気の子/Weathering With You(2019年)

天気の子/Weathering With You (2019年) 監督:新海誠

 

私たちが出会ってきた物語の続き

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雨が降り続く中、東京湾を進むフェリー。離島出身の高校生、森嶋帆高(醍醐虎汰朗)は、島での生活を捨てて東京の街まで家出してきた。自立を目指して仕事を探すも、家出した未成年ゆえに働き口は見つからない。なけなしの所持金でネットカフェ暮らしを続けるが、新宿・歌舞伎町での生活ほ帆高の心身を少しずつ傷つけていく。

残金が尽きた帆高は、家出するフェリーで知り合った須賀圭介(小栗旬)を訪ねる。すがるような気持ちで訪れた須賀は帆高を快く迎え、自ら営む編集プロダクションで記事を書かないかと誘う。帆高は住居と食事がつく条件に惹かれ、須賀のもとで働くことを決める。

須賀は雑誌『ムー』に怪しげな都市伝説を投稿するライター業を営んでいた。帆高は持ち前の真面目な性格でどんどん仕事に打ち込んでいく。ある日、ひょんな出来事からネットで流れている都市伝説「100%の晴れ女」について調べることになった。半信半疑で東京各地で取材を続ける帆高。そんな折、かつて歌舞伎町で知り合った少女、天野陽菜(森七菜)と再会するのだが…

 

 

 

『天気の子』は2019年上映のアニメーション映画で、監督は新海誠。『君の名は。』で国民的なアニメーション監督となった彼にとって7作目となる劇場アニメだ。

新海の作品を貫く美しい風景描写は健在で、「東京」のあらゆる側面を縦横無尽に描く。物語の始まりの地となる新宿・歌舞伎町をはじめ、代々木に銀座、品川に山手線と、東京にゆかりのある人びとならニヤリとしてしまう風景描写が盛りだくさん。東京の町並みをリアルなアニメーションとして切り出した*1映像は、場面ごとに単体で眺めていたくなる美しさだ。

 

そしてこの映像美が描き出すのは、東京の街に存在する苦しいほどのリアリティだ。
登場人物たちはそれぞれ異なった理由で生活に困難を抱えていて、町並みは直接的に、時に間接的に彼らを取り巻く状況を説明する。

主人公の帆高が新宿・歌舞伎町で過ごすシークエンスは説明の必要もないほど息苦しい。離島から身一つで出てきた彼は働き口を探し回るが、身分証のない家出青年を雇うまともな職場は存在しない。

街の悪い大人たちは無価値な少年を慈悲なく扱うし、本来守ってくれるべき警察官も、歌舞伎町という場所を歩く少年には人一倍厳しい。彼を唯一救うのはマクドナルドで差し出されるビッグマックだが、マクドナルドを一度でも訪れたことがある観客はあのシーンがフィクションだとすぐ気づく。

 

なんとかして歌舞伎町を抜け出した帆高が、次に出会うのは幼い弟と二人で暮らす陽菜だ。もうすぐ18歳になるという彼女は、身一つで働いて小さな生活を支えている。山手線沿線ながら人の気配がない田端駅南口近くのアパートは、今にも崩れそうな不安定さをかもしだす。

そして帆高の「抜け出した」先も、場末のスナックを改装した事務所を構える須賀だ。10代の登場人物たちが営む生活は常に不安定だ。安心して寄りかかるべき大人がいない中、彼らは半ば必然的に「力」を活用することを思いつく。「追い込まれて」使うのだ。

 

現状を打ち破るため、陽菜の持つ力を使った「晴れ女ビジネス」は、帆高と陽菜に大きな試練を与えることになるのだが…ネタバレになるので回避する。

 

代わりに、ここでは『天気の子』の問題点ともされる「説明不足感」について語ることにしたい。

『天気の子』は様々な面で非常に「語らない」作品だ。主人公の帆高を突き動かした「家出をした理由」は明らかにならない。陽菜が超常的な力を手に入れるようになったとされる経緯についても、事実起こったことが説明されるだけで、それが何故起こったのかについてはわからない。

劇中で登場人物たちの行動を大きく左右する小道具の出自についてもふわりと語られるにとどまるし、なぜ、代々木の廃ビルがああした性質を持つに至ったかについてもわからない。物語の最終局面に至っても、物事を動かす基準、世の中の原理原則みたいなものは曖昧なままだ。

わからないものはわからないままで、語られることがない。

 

ところで、映画作品は約2時間という時間の制約に縛られた媒体だ。

なにか物語を書こうとすれば、必然的に描くものを制限するしかない。森嶋帆高が生まれてから現在までをすべて描こうとすれば、それこそ16年分のフィルムが必要になる。けれども映画の作り手はそんな手段を決して選ばない。限られた時間の制約を守るべく、語るべきものを厳選し、いらないものを切り取っていく。

今回の『天気の子』で新海が選んだのは、ディテールの説明を「観客の経験に委ねる」ことだった。ここで重要なのは、「観客の想像に委ねる」ではないということだ。

 

1990年代のエヴァにはじまり、私たちはあまりにも多くの「ボーイ・ミーツ・ガール」、「セカイ系」と呼ばれる作品群を体験してきた。赤宮はいわゆるギャルゲーには明るくないが、そうした物語を理解するための素養はある。普通の人生を歩む中で、「わたしとあなたがセカイを左右する」物語は手の届くところにあったからだ。

 

何らかの個人的な悩みを抱え、生まれた街を飛び出す少年の物語を、私達はすでにどこかで経験している。

複雑な事情で両親を失い、半ば水商売に染まりながら学校に通えず、幼い弟を育てる少女の物語も、私達はどこかで体験している。

そしてもちろん、彼と彼女の間に起きた超常的な出来事がなぜ起こったのか、私達はどこかで学んでいる。

『天気の子』はそうした私たち観客が「どこかで体験した物語」を使い、プロットの欠如を大胆に補っている作品だ。

 

古川日出男は、代表作『ハル、ハル、ハル』で「この物語は全部の物語の続編だ」と綴った。彼が描いたのは読者が経験したすべての物語の先にある出来事だ。

 

では『天気の子』は、私たち観客の経験したすべての物語の先に、何を描いたのか。

 

答えはラスト1分にある。

 

小説 天気の子 (角川文庫)

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2019/7/28

*1:これロトスコープだよね?

タクシー運転手 約束は海を越えて/A Taxi Driver(2017年)

タクシー運転手 約束は海を越えて/A Taxi Driver(2017年) 監督:チャン・フン

 

他人事が自分事になるまで

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(あまり予告編の出来は良くない)

 

1980年5月の韓国・ソウル。タクシー運転手のキム・マンソプ(ソン・ガンホ)は、盛んなデモ活動にうんざりしていた。学生たちは民主化だのクーデターだの言っているが、自分にとって韓国は住みよい国だ。変わる必要なんてない。なのに、奴らは道路を埋め尽くして権利が権利がと大声で叫ぶ。おかげでタクシーも走れない。商売上がったりだ!

娘と二人で慎ましく暮らすマンソプにとって、日々のタクシー収入が生活の糧だ。しかし、最近は客入りが悪いせいで家賃も払えない。払っていない家賃は10万ウォン。今のところ家主は許してくれているが、今後返せるアテもない。

ある日、マンソプが友人と定食屋で食事をしていると、他のタクシー会社の運転手が、何やらご機嫌な様子で店に入ってきた。聞いたところ、「劇場前で待っている外国人を光州に連れていき、その後帰るだけで10万ウォン」という依頼を受けたらしい。話を耳にしたマンソプの目は輝き、彼は足早に定食屋を後にする。タクシーに飛び乗り、行き先はもちろん劇場前。10万ウォンの仕事、俺がもらった!…

 

 

 

『タクシー運転手 約束は海を越えて』は2017年に制作された韓国映画だ。1980年5月の韓国で起こった「光州事件」を取材したドイツ人ジャーナリストと、彼に同行したタクシー運転手の物語を基に制作されている。

政治意識が低く、金につられて仕事を引き受けたタクシー運転手が、運転を通じてジャーナリストや地域の人々と交流する。凄惨な「光州事件」を目の当たりにすることで、人間としての使命感を育んでいく物語だ。

 

物語が始まったとき、主人公は民主化にも学生運動にも全く興味を持っていない。まともな教育を受けていないと自称する主人公にとって、社会を変えると叫ぶ学生はうさんくさい存在だ。主人公は貧しいながらも娘と二人幸せに暮らしているし、政府に特に不満を感じていない。政府になにか傷つけられたわけでもない。主人公にとっては、民主化を叫び、道を埋め尽くす学生たちのほうがよっぽど嫌なやつらだと思う。

チャン監督が描く主人公は、なんともありふれた存在だ。日本に住む私達でも「ああ、いるいる、こういうおじさん」と共感できるように描かれている。コミカルイメージも強く笑える場面もたくさんだ。学生運動を馬鹿にする発言にもどこか共感できるところがある。「言い方は悪いけど、言ってることはまあわからなくもないよね」と思わせてくれるおじさんなのだ。

そんな普通のおじさんが、ジャーナリストの依頼を受けたことから、歴史に残る「光州事件」に巻き込まれてしまう。ただ、おじさんはごく普通の感覚をしているため、高速道路で立入禁止看板を見つけると「もうソウルに帰る」と言うし、軍による検問を前にすると「もうソウルに帰る」と言う(けれど報酬欲しさに結局前に進むところがかわいい)。他方でジャーナリストは生真面目なドイツ人らしい性格をしていて、主人公がごねるたびにうまく説得を続ける。2人を乗せたタクシーはいくつかの関門を乗り越え、なんとか光州にまでたどり着く。

 

光州に到着し、市民デモが行われている現場に立ち会っても、2人の反応は対称的だ。危険なところからはいち早く逃れたいと思う主人公と、その場面を映像に残そうとするジャーナリスト。様々な場面で2人の衝突は続く。

一方で、市民デモへの弾圧は激しさを増していく。最初は煙幕が投げ込まれる程度だったが、軍人が市民を殴りつける場面も見られるようになる。もう逃げよう、と主人公は叫ぶが、その声はジャーナリストに届かない。

 

こうした場面を見ていく中で、私達視聴者は、どちらかというと主人公に多く共感するのではないだろうか。

学生運動の時代をとっくの昔に卒業した私達の価値観は、おそらく主人公のそれに近い。どうしてデモが必要なのか、どうして血を流してまで頑張るのか、直感的に理解することができない。そしてそれを取材し、映像として残そうとするジャーナリストの姿勢も理解し難いところがある。

 

『タクシー運転手』のにくいところは、そのあたりの主人公への共感をうまく利用しているところだ。「光州事件」が激しくなるにつれ、周りの人々、そして主人公にも危険が及び始める。そして目の前で平然と起こる暴力や殺戮。人間として危機感を覚えざるをえない、凄まじい光景の数々。それを目の当たりにした主人公の表情は徐々に強張っていく。

さらに、主人公の目を通じて「光州事件」を見る私達も、どこか言いようもない怖さを感じるはずだ。トラックに積まれた一般市民。命を奪われる大学生たちやかよわい女性。軍人たちはマスクを付け表情を見せない。なにか怪物に襲われたような気分を覚える。

おそらく物語が始まったときには、私達も主人公も、民主化運動はよくわからない、くらいの思いしか抱いていなかったはずなのだ。政府が何をしようと関係ない、偉い人は偉いことを勝手にやっている、私達小市民には及ばない。

しかし、『タクシー運転手』はそんな幻想を粉々に打ち砕く。政府の軍隊は市民を平然と撃ち殺し、街のあちこちで軍人が暴力を振るう。いったいどうして暴力が振るわれるのか、劇中での説明はほとんどない。せいぜい与えられるのは「暴徒の鎮圧」くらいのものだ。納得できる説明になるはずがない。私達は主人公とともに怒りを覚える。

 

他人事だと思っていた事件が、自分事になっていく。「ありふれたおじさん」がそれを痛感していく過程は、見ていてとても苦しいところがある。タクシーの中からバカにしていた民主化運動の意味、戦わなければならない理由を、嫌でも目の当たりにさせられる。

 

しかし、この映画は決して暗い、悲しい映画ではない。物語のクライマックスでは「ありふれたおじさん」が出した答えをめぐる感動的な演出が続く。娘のもとに帰ろうとする主人公。真実を届けるため必死で行動するジャーナリスト。そして他の人々は命を賭して彼らに協力する。ラスト30分は掛け値無しで感動の嵐だ。

 

「ありふれたおじさん」がどのように変わり、そして私達がどのように変わったか。

 

他人事が自分事になる瞬間をぜひ体験してほしい。傑作です。

 

 

 


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(予告編とかポスターとかから映画の良さが全然伝わらないの、もったいない。)

2018/8/12

映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ~拉麺大乱~(2018年)

映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ~拉麺大乱~(2018年)監督:高橋渉

 

平和を実現するのは正義なのか

 


『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱~』予告

 

いつも自信なさげなマサオくん(一龍斎貞友)が、これまたいつものように不良幼稚園児たちに絡まれている。しかし今日のマサオくんは一味違った。不良たちを前にして、洗練されたカンフーの型を見せつけるマサオくん。あまりにも切れ味鋭い彼のカンフーは、触れればヤケドしそうな雰囲気を漂わせていた。

今日のマサオくんはどこかおかしいゾ。しんのすけ矢島晶子)たちカスカベ防衛隊は、威風堂々と立ち回るマサオくんを尾行することにする。歩いた先にあったのは、春日部で古くから発展してきたチャイナタウン、「アイヤータウン」。マサオくんが向かった先は、伝説のカンフー「ぷにぷに拳」の修行場だった。…

 

 

 

『映画クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜』は、劇場版クレヨンしんちゃん26作目の作品だ。以前の記事で述べた通り、赤宮は劇しんとともに育ってきたような人間なので(実際のところ同い年だ)、今年も欠かさず映画館に向かわせてもらった。

cinemuscular.hatenablog.com

 

今回の『カンフーボーイズ』の製作が発表されたとき、劇しんファンの殆どが強い期待を抱いていたことは間違いない。なんといっても高橋渉監督の再々登板なのだ。

劇しん22作目『ロボとーちゃん』で鮮烈な長編作品デビューを飾った高橋監督は、近年の劇しん再興を決定づけた監督といって間違いない。「とーちゃんのロボット化」という思いもよらぬアイデアにより、これまでの劇しんが踏み込めなかった領域に突入した同作は、「クレヨンしんちゃん」というブランドに多くの可能性がひそんでいること、そしてそれを追究することの価値を提示したといっていい。加えて、商業的にもそれまでの劇しん歴代3位の興行成績を叩き出し、長きにわたって停滞していた劇しんブランドを復活させる契機を与えた。『ロボとーちゃん』後の劇しん作品の興行収入は全て15億円を突破している。

(ちなみに、名作と名高い『オトナ帝国』や『戦国大合戦』は、いずれも15億円に達していない)

 

そんな高橋監督が2016年の『ユメミーワールド』以来2年ぶりの再登板だ。今回の作品に見られる特徴の一つは、「キャラクターの原点回帰」だろう。熱心な読者でないと忘れているような名脇役たちが多数作品に登場している。埼玉紅さそり隊の3人やミッチー・ヨシリン、ロベルトといった初期アニメのファンにはたまらない脇役が多く画面に映ってくる。まさか「またずれ荘」の四郎くんをもう一度しっかり銀幕で見れるとは思ってもみなかった。

 

「原点回帰」は、既存のキャラクターを登場させるだけにとどまらない。ゲストキャラクターのデザインがかなり「原点回帰」しているのだ。近年の劇しんのキャラクターたちはどちらかというと最近の流行、他のアニメのキャラクターたちをクレしん流にアレンジしたようなものが多かった。しかし今回の『カンフーボーイズ』に現れるキャラクターは、どこか古臭くデフォルメされたものが多く登場している。ヒロインのタマ・ランや敵黒幕のドン・パンパンのデザインは、90年代後半のクレしん映画でよく見かけたようなものだ。こうした良い意味での「古臭さ」は、映画全体に良いアクセントを加えることに成功している。

 

ストーリーとしては、マサオくんを通じてカンフーと出会ったしんちゃんたちが、ベタベタなカンフー映画のプロットに沿ってカンフー修行に取り組むものになっている。劇しん作品として特筆すべきなのは、劇しんの歴史上初めてマサオくんにスポットライトを当てているところだろう。いつも冴えないマサオくんが、カンフーと出会い、挫折し、そしてどのように成長していくのかは見どころの一つだ。

 

しんちゃんとヒロインのランがともに修行し、メキメキとカンフーの才能を開花させていく過程も面白い。毎度おなじみ「これ何の映画だっけ?」と突っ込みたくなるアクションシーンは健在だ。謎のラーメン勢力がカンフーでバッタバッタと倒されていくシーンはシンプルに爽快だ。

 

 

 

ところで、既に映画をご覧になった方はお気づきだろうが、ここまで赤宮は『カンフーボーイズ』終盤の怒涛の展開について全く語っていない。そこについては語りたいことが山ほどあるわけだが、なんせ読者にネタバレをするわけにはいかない。

差し障りのない範囲で言うと、『カンフーボーイズ』は「これまでのクレしんでは無かった展開」を実現させた作品だ。先に述べた「原点回帰」「マサオくんへのスポットライト」は、この展開を際立たせるために良い役割を担っている。

前作の『宇宙人シリリ』の橋本監督もかなり攻める形で劇しんの可能性を追求していたが、今回の『カンフーボーイズ』はもしかするとそれを超える作品なのかもしれない。

 

 

 

2018/4/14

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/Battle of the Sexes(2017年)

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/Battle of the Sexes(2017年)監督:ジョナサン・デイトン/ヴァレリー・ファリス

※日本では2018年7月6日公開予定


切れ味鋭く、爽やかな社会派映画

 


BATTLE OF THE SEXES Trailer (2017)

エマ・ストーンって美人だよなぁ)


女子テニスのナンバーワンプレイヤー、ビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)は、テニストーナメントの報酬が男女間で8倍もの差があることに意義を唱え、テニス協会からの脱退と、女性による新協会の設立を宣言した。旧協会からの圧力を受けつつも、ビリー・ジーンたちは活動を進め、女子テニスは徐々に人気を集めていく。

そうした時勢をうまく読み取ったのは、かつての男子チャンピオン、ボビー・リッグス(スティーブ・キャレル)。彼は女子テニスの人気に男と女の戦いを見出し、男女対抗スペシャルマッチを提案する。しかしビリー・ジーンは、自分たちの活動をフェミニズムと重ねられたくはなかった。やんわりとボビーの誘いを断るものの、ビリー・ジーンのライバルは、男子との対抗試合に乗り気な様子で…

 

 

 

バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は、実際にアメリカで1973年に行われた、テニスの男女対抗スペシャルマッチを基にした作品だ。プロットはこのスペシャルマッチを軸にして進行するが、テニスの試合や結果にはそれほど重点が置かれていない。どちらかというと試合を巡る男女間の不平等や、登場人物たちの複雑な人間模様を中心としてストーリーが進行していく作品だ。

1973年という時代性を踏まえ、現在と比べて著しく不平等だった男女関係や、全くといっていいほど市民権を得ていなかったLGBTQの問題などが、当時の文脈で丁寧に描写されている。それらは主人公のビリー・ジーンの行動を通じ、ストーリーの中で違和感なく展開されているため、政治的な嫌らしさもあまりない。作品としてのバランスを保ちつつ、監督の描きたいテーマをしっかり描いており、全体として優れた出来になっている。

 

この作品で真っ先に褒めるべきなのは題材選び、そして切り取り方の潔さだろう。フェミニストLGBT活動家としても活躍したテニス選手ビリー・ジーンを取り上げ、かつそのキャリアの一番面白い部分に絞った作品作りを行っている。

考えうる選択肢としては、ビリー・ジーンの人生全体を取り上げ、伝記のような作品作りを行うだとか、他にも彼女の選手キャリア全体を見渡して成長物語を展開する、という方法もあったはずだ。しかし、『バトル・オブ・セクシズ』はそうしたやり方を採用しない。この作品は余分な要素を一切省いて、「1973年のスペシャルマッチ」に焦点を当てて、そこに向かっていくビリー・ジーンの姿だけが描かれている。

ストーリーが始まった時点でビリー・ジーンはウィンブルドンで勝利しているし、世界最高の女子テニス選手としての名誉を手にしている。そんな彼女が、1人の女性として、マイノリティとして、いかに「男と女の戦い」に臨んでいくのか。

 

そして、「1973年のスペシャルマッチ」に焦点を絞るという『バトル・オブ・セクシズ』のアプローチは、必然的にもう一人の主人公を生み出すことになる。それはビリー・ジーンの対戦相手、ボビーだ。55歳、かつての世界チャンピオンであったボビーは、ビリー・ジーンから見た「前世代」、つまり男性優位主義者の象徴として描写されている。

しかし心憎いのが、ボビーが必ずしも、典型的な強い男性のイメージを背負いきれていない、ということだ。彼の腹は出ているし、意中の女性からはぞんざいな扱いを受ける。皮肉なことに、テレビ越しで彼を応援している人たちのほうが、よっぽどマスキュラーで、「男性らしい」見た目をしている。「男の代表」であるはずのビリーは、必ずしも男らしくはなりきれていない。にもかかわらず、世の男性たちはビリーに「男と女の戦い」を任せきっているという、なんとも奇妙な関係性が浮かび上がってくる。

 

スペシャルマッチを巡る2人の戦いだけでなく、彼女たちを取り囲む人びとの人間模様も面白い。

この辺りの描き方がさすがで、幾何学的をいかんなく発揮した映像づくりや、シーンの展開に合わせて重低音をうまく使った音楽のセンスなど、使えるものは全部使ってしまえ、という勢いで繊細な人間関係が描写されている。ネタバレになるので詳しくは書かないが、鑑賞の際はぜひヘッドフォンを付けていただき、画面と音楽の細かい変化に十分配慮していくことをおすすめする。

 

 2017/12/29

ブラックパンサー(2018年)

ブラックパンサー/Black Panther(2018年)監督:ライアン・クーグラー

 

本気で作った現代ハリウッド・アフリカ映画

 


「ブラックパンサー」予告編


アフリカの小国ワカンダには、世界に知られていない秘密がある。表向きには農耕を主とした途上国というイメージを持たれているワカンダ。しかし、国中に広がる山々の間、大きな洞穴をくぐっていくと、そこには世界最先端の技術大国が広がっている。500年前、宇宙からやってきた希少鉱石ヴィブラニウムを使って、ワカンダは世界全てを圧倒する科学技術を育んできたのだ。

そんな中、国連で発生したテロ事件において、国王ティ・チャカ(ジョン・カニ)が逝去してしまう。こうして国王の若き息子ティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)は、王位継承の儀式へと臨むことになった。儀式で行われる決闘の相手は、山奥に棲む部族の長であり、屈強な肉体を持つエムバク(ウィンストン・デューク)。2人の戦いが熾烈を極めていく一方、世界ではワカンダのヴィブラニウムを取り巻く不穏な影が漂い始めていた。…

 

 

 

ブラックパンサー』は2018年に公開された映画だ。ハリウッド映画、しかもマーベルの作品としては非常に珍しい(初めてな?)ことに、監督及びキャストの殆どを黒人が担当している。

こういう作品の例に漏れず、『ブラックパンサー』は、作中全編を通じて「黒人のハリウッド映画を作るんだ」という心意気が伝わってくる映画だ。アートワーク全般についていかんなく伝統的なアフリカ的なデザインをあしらったかと思えば、BGMでは黒人文化としてのヒップホップ音楽を積極的に採用している。

 

しかし一方で、本流の大作ハリウッド映画としての矜持を捨てていないところが、『ブラックパンサー』の心憎いところだ。技術大国ワカンダのシーンでは全編に渡ってCGが多用されており、それらを捉えるショットや編集方法もハリウッドの流行に沿っている。戦闘シーンでは短いショットと場面転換が高速で繰り返され、観客を(良くも悪くも)無理矢理アクションに引き込んでいく。会話シーンではクローズアップが多用され、キャラクターたちの細かい表情まで深く読み取れるようなフレーミングがなされている。

 

少々乱暴にまとめるのを承知で言えば、『ブラックパンサー』は「現代ハリウッド映画のやり口でアフリカを撮った」映画なのかもしれない。もちろんマーベル作品ということもあり、ワカンダの科学技術の描写は殆どSFじみたものと言ってよいだろう。しかしそれでも随所に見えるアフリカの大自然や、黒人俳優たちの優れた演技を見る限り、SFじみた描写はあくまで添え物に過ぎないようにも思える。この映画で味わうべき点は、「本気で作った現代ハリウッド・アフリカ映画」だろう。

 

ただ、脚本やストーリー展開については少々残念なところがある。中盤以降現れてくる悪役たちの行動原理がイマイチはっきりしないのだ。ある悪役は、「少数者への抑圧」を無くしたいという思いから主人公たちと対立するわけだが、この作品では肝心の「少数者への抑圧」が具体的に現れていない。少数者(≒アフリカ人)に対する抑圧、といえば大体察しはつくと思われるが、そうした抑圧のシーンは、まったくもって劇中に現れてこない。もちろん個人的なモチベーションは(一応)語られる。しかしそのモチベーションと行動の間にイマイチ連続性が見えてこないところがある。(マーベル映画ではありがちなことだが)

 

マーベル・ユニバースの作品である関係上、色々制約が多かったのだとは思うが、「本気で作った現代ハリウッド・アフリカ映画」として、もう一歩踏み込んだ内容を見てみたかったとは思う。ただ、全編としてかなりクオリティが高い作品な分、その惜しさが少し際立っているのかもしれないとも思う。

マーベル ブラックパンサー フルマスク コスチューム用小物 男女共用

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2018/4/8