日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

惑星ソラリス/Солярис(1972年)

惑星ソラリス/Солярис(1972年)監督:アンドレイ・タルコフスキー


Solaris (1972) trailer

地球から遠く離れたところ、海と雲に覆われた惑星ソラリス。この惑星を探索する宇宙ステーション「プロメテウス」との連絡が途絶えたことから、心理学者のクリス(ドナタス・バニオニス)は単身宇宙に上がり、「プロメテウス」の調査に赴くことになった。出発の直前、かつてソラリスで超常現象を体験した宇宙飛行士バートン(ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー)は、ソラリスを研究の対象としか捉えないクリスの態度を強く戒める。しかしクリスはバートンの言葉を軽視し、二人は決別してしまう。

クリスは宇宙に上がり、「プロメテウス」に到着する。そこでクリスは、友人であり、物理学者のギバリャン(ソル・サルキシャン)が既に自殺していたという事実を知る。彼の死の真相を探るべく、「プロメテウス」の乗組員を問い詰めるクリスだったが、どうも的外れな答えしか得られない。ギバリャン本人がクリスに遺した映像すら、その内容はあやふやで、とてもクリスの納得のいくものではなかった。

乗組員たちは、困惑するクリスに「やがてわかる」と意味深な言葉を残す。クリスは疲れ果て、「プロメテウス」の自室で眠りについてしまった。朦朧とする意識の中、どこからか美しい女性が現れ、クリスの顔を一撫でする。その女性を優しく受け入れ、彼女を抱きしめるクリス。しかし、意識が目覚めるにつれ、クリスは事態の異様さに気付き始める。

これは夢ではない。地球から遠く離れた「プロメテウス」の自室で、自分は亡くなったはずの妻を抱きしめている…

 

記念すべき50本目の映画記事を迎えるにあたって、49本目と50本目は、同じ小説を原作とした異なる2つの作品を取り上げることにした。本日取り上げるのは、ロシアの名監督、アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』だ。スワニスタフ・レムの名作SF小説ソラリスソラリスの陽のもとに)』を下敷きとして完成させた、『2001年宇宙の旅』と並んでSF映画界の伝説といわれる作品である。

タルコフスキーは芸術家とも称される映画監督で、自然のモチーフを使った美しい映像作りを行うことに定評がある。しかし、時に芸術性が先行しすぎて、タルコフスキー作品には「退屈」との烙印が押されることも少なくない。『惑星ソラリス』も例外ではなく、ある程度スローな場面がかなりの数存在しているため、人によっては退屈を感じてしまうことがあるかもしれない。

そんな『惑星ソラリス』ではあるものの、SF映画界の伝説と呼ばれるだけあって、SF的素材を土台に重厚なテーマを扱った名作である。『2001年宇宙の旅』への対抗意識もあったのだろうか、少々安っぽいながらもSFチックに組み上げられた宇宙船セットは近未来感に溢れているし、そこで描かれる人間ドラマには胸を打つものがある。

しかし、巷で言われているような、手放しで賞賛できる作品でもない。今回の記事では、そんな『惑星ソラリス』の魅力を語ったあと、突っ込むべき部分にツッコミを入れてみよう。赤宮は無謀にも、名匠タルコフスキーに戦いを挑むわけだが、まあそのあたりは温かく見守ってほしい。

 

さて、『惑星ソラリス』を見ていくにあたって、まず見るべきはその映像美だろう。その美しい映像たちは単なる芸術的効果をもたらすだけでなく、観客を映画全体の世界観に没入させることに成功している。

映像の中でも、注目すべきなのはモチーフだ。タルコフスキーは水や鏡といったモチーフをうまく利用する監督として知られており、『惑星ソラリス』でも、タルコフスキーらしさが溢れるモチーフが頻出する。

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「鏡」のモチーフ。

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「水」のモチーフ。

こうしたモチーフを徹底的に美しく配置することで、タルコフスキーは『惑星ソラリス』に幻想的な世界観を与えることに成功している。モチーフは地球とソラリス、過去と現代、幻想と現実を問わず使用されているため、時代も場所も違う、ひいては本当か嘘かも分からない映像の間にある種の繋がりをもたらすことができる。

中でも、『惑星ソラリス』で一番多用されているのが水のモチーフだ。冒頭に映る美しい湖、ソラリスの海、降り注ぐ雨、草が生けられた花瓶、水差しから流れる水。全ての水は意識的に美しく撮影されており、観客に幻想的な印象を与えるとともに、遠く離れたソラリスという場所を身近に感じさせる効果を発揮する。モチーフは地球とソラリス、ひいては観客と『惑星ソラリス』の間に繋がりをもたらしていくのだ。

モチーフを通じて観客と繋がることに成功した『惑星ソラリス』は、「プロメテウス」で起こった科学者の死、そして主人公と亡くなったはずの妻の関係性を通じて、遠く離れた惑星で苦しむ主人公の姿を説得的に描写する。

 

「居なくなってしまったはずの大切な人が隣りにいる」。昔、日本でも草なぎ剛主演の『黄泉がえり』という作品があったが、あれはタイトルどおり、死んでしまった大切な人が「還ってくる」作品だ。『惑星ソラリス』で語られるストーリーはそれとは少々異なる。主人公たちは地球から遠く離れたソラリスを探査する「プロメテウス」に向かい、そこで「居なくなってしまったはずの大切な人」と出会う。

なぜ、「プロメテウス」に、亡くなったはずの妻が存在しているのか。劇中では、「ソラリスの海が乗組員の意識を読み取り、意識の中にある妻を形作った」と推察されている。つまり、彼女は元々ソラリスに存在していたわけではない。主人公が「プロメテウス」を通じてソラリスに接近したことで生まれた、いわば主人公とソラリスのコミュニケーションの産物だ。

もちろん、ソラリスが生み出した存在である以上、目の前に居る妻は本当の妻ではない。声も容貌も一緒なのに、妻ではない。しかし他方で主人公には、死んでしまった妻に対して罪の意識を抱えるところがあった。今、自分と共にいる妻に対して、贖罪の機会を与えられているのかもしれない…

こうして主人公は、自分の胸に妻の形をした何かを抱きながら思い悩むのだ。もはやソラリスなど関係ない、男女の関係性を巡る普遍的なテーマがそこにはある。自らの罪の意識を巡る主人公の精神的な戦いは、ロシアの文豪ドストエフスキーの作品を見ているような気分にもなる。

モチーフによって『惑星ソラリス』と結び付けられた観客は、遠い惑星、故郷から離れた場所で思い悩む主人公の心を推し量らずにはいられない。まるで自分たちもソラリス、「プロメテウス」に赴き、主人公と同じような苦難を味わっているような気分を味わうことができる*1。一旦ここで彼らの関係に没入することができたなら、衝撃の展開と呼ばれるラストシーンについても、違和感なく受け入れることができるに違いない。

 

さて、以上見てきたとおり、『惑星ソラリス』はモチーフを駆使した観客の惹きつけ、「プロメテウス」で語られる哲学的問いという観点から言えば、間違いなく名作と呼ぶべき作品だ。そこまで深く考えなくとも、先述したラストシーンの衝撃的展開だけで十分お釣りが来るレベルの作品ではある。

 

しかし、である。赤宮は今回、このタルコフスキー版『惑星ソラリス』に、強く異議を唱えなければならない。それはなぜか。

そもそものきっかけは、原作者レムが映画版『惑星ソラリス』に強く苦言を呈していたと知ったことだった*2。名匠タルコフスキーによる映画化、満足こそすれ不満など起こるのか…? そんな風に考えながら、赤宮は『惑星ソラリス』を鑑賞した。

 

そして、『惑星ソラリス』を鑑賞し終わった。そこで赤宮が強く疑問を覚えたのが、タルコフスキーが惑星としてのソラリスに関し、重要かつ根本的な扱いの変更を加えていたという点だった。

レム原作の『ソラリス』において、主人公と亡き妻の関係は重要ではあるものの、核心ではない。「プロメテウス」を訪れた主人公は、ソラリスに関する文献を読み漁り、その海が知的生命体として活動してきた歴史を学んでいく。そして直接ソラリスの海を観測し、亡き妻との交流を経ながら苦難と向き合い、ソラリスとのコミュニケーションの方法を探る内容となっている。

ここに明らかな通り、原作の『ソラリス』においては、「ソラリスそのもの」が非常に重要な主体として描かれている。強引に要約すると、レムの原作『ソラリス』は、「コミュニケーションを取れない知的生命体と、それでもコミュニケーションを取ろうと苦難する」地球人の姿を描いた作品だ。ソラリスから地球人への反応の一種として「亡き妻の姿をした何かを創造する」ことも描写されるが、それはあくまでソラリスの一面を描いているにすぎない。

 

だとすれば、タルコフスキーによる『惑星ソラリス』は、ソラリスの一面、「居なくなってしまった大切なものを創造する」を過度に強調し、その一面をもってソラリスを語り尽くそうとする点に問題がある。「罪の意識を感じている夫と、亡くなってしまったはずの元妻」を描きたいのであれば、それこそ草なぎ剛の『黄泉がえり』で良いはずなのだ。たとえ、そこに故郷への思いや、母との関係性といった他の要素を盛り込むとしても、「コミュニケーションを取れない、異星の海という知的生命体」を持ち出す必要性は生じない。

異なる言い方をすれば、タルコフスキーは『惑星ソラリス』で、ソラリスを単なる舞台装置として扱ってしまっているのだ。人が訪れれば、その人の意識を読み取り、大切な何かを創造してくれる、そんな装置。まるでドラえもんの便利なひみつ道具のようだ。劇中では、二人の科学者が地球的価値観で物を見るべきか、銀河的な価値観で物を見るべきか、と意見を戦わせる場面が存在するが、皮肉なことに、異質な価値観を受け入れることを描いたタルコフスキー自身が、地球的価値観、単なる装置としてしかソラリスを捉えられないという視点に陥っている。

 

原作者レムが創造したソラリスという惑星は、知的生命体であると思われる海を携えながら、意思を示さず、ただただ「反応」を行うだけの存在だ。地球人がいくら働きかけたところで、その反応は明後日の方向を向いている。そこにコミュニケーションは存在しない。

しかし、私たちの日常を振り返ってみても、そんな存在が居やしまいだろうか。反応は返してくれる。しかしどうもコミュニケーションが成立しない。ソラリスの海とまでいわずとも、私たちの日常には、コミュニケーションの苦難がたくさん存在している。

そんなコミュニケーションが成立しない主体に対して、レムが示した道は、それでも相手の主体、ソラリスを理解しようとする姿勢だった。原作終盤、主人公は自由奔放なソラリスの海に苦しみながらも、それでも理解を諦めない姿勢を示す。そこには、理解不能な相手に対しても理解を諦めようとしない、前向きな姿勢が示されている。このレムが示した道は、ソラリスという主体と、数多くの人間が諦めずに理解しようとしてきた歴史、両者があって初めて成立するものだ。そしてこの資質を備えてこそ、宇宙時代を迎えた人類は地球の外に飛び出していくことができるのだ。

 

その反面、タルコフスキーの『惑星ソラリス』には主体としてのソラリス、という視点が完全に欠けている。レムが創造したソラリスの複雑さをありのままに受け入れず、理解を諦め、ソラリスを味気ない舞台装置の地位にまで押し下げてしまっている。確かにソラリスは複雑な存在だ。しかし、レムが描いたソラリスが、主体としての地位を獲得する存在である以上、その視点を欠くわけにはいかないはずなのだ。

 

タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、ストーリーやテーマ、映像美など、多くの観点から言って傑作と称されるべき作品だ。しかし、この作品を原作者レムの『ソラリス』との関わりで見た時、至らぬ多くの点が見えてくることを指摘しなければならない。

その後、『惑星ソラリス』から数十年の時を経て、アメリカにおいてリメイクが行われることになる。ジェームズ・キャメロン制作『ソラリス』。タルコフスキーの作品と比べられて低い評価を受けがちなこの作品ではあるが、次回はこのリメイク版を詳細に見ていこうと思う。

惑星ソラリス HDマスター [DVD]

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2017/11/4

*1:ただし、このあたりの映像はわりと退屈なので、寝落ちせずに済んだなら、という条件を付けておきたい。

*2:ハヤカワSF文庫版『ソラリス』の「解説」などに詳しい、はず。原本が手元にないのでうろ覚え。