日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

エイリアン:コヴェナント/Alien:Covenant(2017年)

エイリアン:コヴェナント/Alien:Covenant(2017年) 監督:リドリー・スコット


映画『エイリアン:コヴェナント』予告D

2104年、宇宙船コヴェナント号は、惑星「オリガエ6」に入植するため、2000人以上の冷凍保存された人間、そして1000個もの人間の胚を乗せて航行していた。コヴェナント号の舵を握るのは、アンドロイドのウォルター(マイケル・ファスベンダー)。これまで問題なく業務を遂行していたコヴェナント号だったが、突如宇宙空間で発生した振動波に飲み込まれてしまう。冷凍睡眠から目覚めた乗組員たちの踏ん張りにより、無事コヴェナント号はコントロールを取り戻すが、振動に伴う事故の影響で船長ブランソンが命を落としてしまう。

突然の別れに、ブランソンの妻ダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)は悲しみを隠しきれない。そんな折、コヴェナント号は謎の信号を受信する。信号を解析したところ、どうやら発信元の惑星は、「オリガエ6」以上に入植に適している可能性があるとのことだった。船員たちはこの惑星に俄然興味を示し、10人からなる捜索隊を結成することを決める。

無事、惑星に降り立った船員たちは、銃火器を片手に捜索を始める。慎重に歩き始めた船員たちだが、心配とは裏腹に、大気は安定し、食用に適した植物も存在しているようだ。そのまま捜索を続けていくと、C字型の巨大な宇宙船が発見された。どうやらここに文明があったことは間違いない。興奮の色を隠せない船員たち。けれども、とある船員が、体調の悪化を訴え始めて…

 

エイリアン:コヴェナント』は『エイリアン』の前日譚にあたる三部作の二作目、『プロメテウス』の続編にあたる。前作『プロメテウス』のヒロインやアンドロイドが、その後どうなったのか…?という後日談を描いた作品だ。

そんなことだから、『プロメテウス』を見ていないとさっぱり訳がわからない。「あの登場人物が○○だったなんて!」だとか、「あんなに××だったあの登場人物が△△ですって!」みたいなシーンが連続するわけだ。

とはいえ、さすが『ブレードランナー』や『テルマ&ルイーズ』のリドリー・スコット監督であり、作品を通じて語ろうとするテーマは深淵で壮大だ。エイリアン、アンドロイド、人間、巨人族の間の対立や価値観の相違、誰が想像者たるかを描いた物語は深く、ぼんやり見ているだけでも「生きるって難しいなぁ」などと難しいことを考えてしまう。自我に目覚めたアンドロイドがどんな選択をするのか。彼らは何を為そうとするのか。スコット監督のテーマは毎度のことながら重厚だ。

 

ただこれ、SFパニック映画で描写を試みるテーマなのだろうか。

確かに、自我に目覚めたアンドロイドがどのように行動するのか、という問題は、スコット監督の長きに渡るテーマの一つであり、かの名作『ブレードランナー』でもそれは表出していた。今回の『エイリアン:コヴェナント』においても、「アンドロイドの自我」は中心テーマの一つであり、かなりの尺を取ってアンドロイドの描写が行われている。

そして、アンドロイドたちにより語られる「誰が作り、誰が作られるのか」という議論も面白い。その結果としてアンドロイドが人間とどのように付き合うのか、それを考えていくシーンについても、ふんふんと頷きたくなる、こうした議論の興味深さについては否定しない。

しかし赤宮は、SFパニック映画を見に来たのだ。『エイリアン』という看板に引きずられ、宇宙船でのパニックを想像しながら「今晩はワクワクやで」と思って映画館までやってきたのに、実際始まってみたら、偉そうな顔をしたアンドロイドたちが人類の起源について重厚に語ってくる。「自由な服装でお越しください」と言われて私服で向かった会社説明会で突如ガチの面接が始まった、あの感覚に似ている。思うてたんと違う、というやつなのである。

エイリアンを巡るシーンが完全に添え物と化しているのだ。登場シーンにもそれほどのインパクトはないし、初期のエイリアンにはグロテスクさがあっても恐怖感はない。かと思えば、なぜかやたらと怯えきった人間たちが洞窟やらどこやらでライフルを乱射してパンパンパーン、パンパパーンである。いやそこは冷静に対処せーよ、と冷静にツッコミを入れたくなってしまう。

というわけで何が言いたいかというと、この映画の主眼がどこに置かれているのか、何の話をしたいのかがさっぱりわからない。真面目な顔をして人類の起源についての講義を聞くべきなのか、大口を開けてエイリアンのスリルを楽しむべきなのかの区別が付かないのだ。

また、演出面でいっても、エイリアンはエイリアンでグロテスクで怖いものの、肝心のサスペンスが上手く作用していない箇所が多く、奴らが出てきても単なるサプライズでしかない。エイリアンたちも強いには強いが、銃火器が割と効くので、絶望感もあまりない。少なくとも、『エイリアン:コヴェナント』において、エイリアンの役割は真面目になりすぎた私たちの頭を一休みさせるための清涼剤にすぎない。こうなってしまうと、いっそエイリアン全く出てこないほうが良かったんじゃないの、というレベルの邪魔者感である。エイリアンさんも仕事選べばいいのに…という謎の同情すら湧いてくる。

こうした、『エイリアン:コヴェナント』におけるある種の残念さ、中途半端さは、SFパニック映画というハードルの低い作品で、人類の起源というハードルの高いテーマを扱ってしまった、そのちぐはぐさに由来するのだと思われる。SFパニック作品を作るのであればそれに集中し、深淵なテーマを扱いたいのであれば、そうした深淵な(そしておそらく退屈な)作品を作ると決めて作る必要があるのだろう。

 

しかし、ここまで叩いておいてどの口が言うのだ、と思われるだろうが、リドリー・スコット監督は名監督だ。『ブレードランナー』ではディックの『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』におけるアンドロイドの自我問題を真摯に扱ったし、『テルマ&ルイーズ』ではトラウマと現実に苦しむ女性たちの苦悩をユーモアたっぷりに描ききった。

しかし、『エイリアン:コヴェナント』は、そんな名監督ですら、深遠なテーマをパニック映画で描くことは難しいという教訓を与えてくれた。餅は餅屋。八百屋にサンマを頼むな。SFパニックはSFパニックで、深遠なテーマは重苦しい作品で描いたほうがいい。無闇に挑戦してしまうと、時としてこんな作品を生まれてしまうということなのかもしれない。

 

2019年に続編制作が決定したらしい。マジか。

エイリアン:コヴェナント アート&メイキング

エイリアン:コヴェナント アート&メイキング

 

2017/10/20