日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

ベイビー・ドライバー/Baby Driver(2017年)

ベイビー・ドライバー/Baby Driver(2017年)監督:エドガー・ライト


映画『ベイビー・ドライバー』特別映像【Driven By Music】


ベイビーはいつでも、イヤフォンで音楽を聞いている。人と話している時や、仕事をしている時でさえも、彼はイヤフォンを耳から外さない。幼少期の事故の後遺症で、ベイビーは耳鳴りを患っている。音楽を聞いているときだけは、耳鳴りが止んでくれるのだ。だから彼は、いつでも音楽を聞いている。

疾走感のある音楽を聞きながら、ベイビーはハンドルを握る。天才的な運転技術を持つ彼は、強盗団のボス、ドクからドライバーとして雇われていた。ボスの呼び出しに応じ、今日も追手から逃亡するベイビーたち。しかしベイビーは、強盗団の仲間たちが容赦なく人の命を奪うことに違和感を感じ始めていた。

そんな中、ベイビーは行きつけのカフェの新人ウェイトレス、デボラと出会う。ベイビーとデボラは、音楽の話で意気投合し、徐々に関係を深めあっていく。他方で、ベイビーは相変わらず強盗に加担させられている。何とかして現状から抜け出したいと思うベイビーだったが、強盗仲間たちとの仕事の途中、彼らからデボラの働くカフェに立ち寄るよう言われてしまい…


ベイビー・ドライバー』の基本設定は非常にかっこいい。「耳鳴りを防ぐために音楽を聞いている」というところだ。序盤、BGMの多くはベイビーのipodやステレオに合わせて流れ、ベイビーもそれに合わせてノッたり、踊ったりする。その姿はどこか愉快で、自分も身体を動かしたりしてベイビーに合わせたくなってしまう。観客は、ベイビーと一緒に音楽を楽しむことができるのだ。

とはいえ、私たちは、そのままベイビーの音感をありのままに受け入れ続けることは出来ない。ベイビーの音へのこだわりはどこかヘンだ、ということがわかってくる。彼はipodを何十台も持っていたり、他人の言葉をテープレコーダーで録音する趣味があったり、とにかく音に対する妙なこだわりを持っている。それどころか、録音した他人の言葉をミキシングし、オリジナルの楽曲に仕立て上げるという、よくわからない趣味まで持っている。

ではなぜベイビーは、ここまで音楽にこだわるのだろうか。その理由が、彼の耳鳴りに起因することは間違いない。『ベイビー・ドライバー』では、音楽が流れていない時、意図的に耳鳴りじみたSEが挿入されることがある。例えば、ふとした出来事からベイビーのipodが壊れてしまうと、脈絡もなくキーンと音が響く。その音は、とても不快で、大音量で聞くには辛いものだ。ベイビーはこの耳鳴りを恐れている。音楽はそこから逃れる手段となる。

しかし、ベイビーが耳鳴りを恐れるのには他にも理由がある。ベイビーの耳鳴りの原因は、彼が幼少期に経験した交通事故にある。そこで、彼は愛する両親を失った。耳鳴りを感じることは、ベイビーにとって自分のトラウマを思い起こすことに等しい。彼はそうした苦しみを味合わないためにも、耳鳴りから気をそらさなければならない。彼の音へのこだわりは、こうした背景から生まれてくる。不快な音と、そこから連想される自分のトラウマから逃避するために、ベイビーは常に音楽を聞き続けている。

ベイビーは逃避の手段として音楽を利用しているのだ。そしてその逃避は、音楽だけにとどまらない。ベイビーはまた、強盗団の運転手という仕事を、逃避行動の一種として行っている。彼は莫大な金額の報酬を受け取っているが、それを何かに費やすことをしない。稼いだお金をそのまま床下に隠し、以後手を付けることもない。彼にとって運転手はお金以外の何かを目的に行われているものだった。

その目的は何か? 時々挿入されるベイビーの回想と合わせて考えるなら、運転の仕事もまた、自分のトラウマから逃れるため、と考えるべきではないか。運転に集中している時のベイビーは、普段の彼とは違う、凛とした表情を見せる。彼は運転に集中しており、他の何かに苦しめられることがない。自分のトラウマと向き合わずに済む。

 

ベイビーにとっての不幸は、こうしたトラウマを抱え、そこから逃れようとする姿勢に対して、周囲から理解が与えられないということだった。耳鳴りやトラウマが内的なものである以上、ベイビーの苦しみは外面的に理解されるものではない。他方でベイビーは、運転手の仕事や日常生活を通じて、自分の内面、苦しい気持ちを露わにできる他者との出会いに恵まれなかったのだ。

強盗団のボスであるドクはベイビーの人格を認めつつも、基本的に運転手としての腕前以上の評価を与えていない。強盗団の仲間たちは、1人を除いてベイビーの音へのこだわりを尊重しない。そしてその1人とは、終盤、とある別の事故をきっかけに袂を分かつことになってしまう。

ベイビーに理解者が居たとすれば、それは養父だった。普段いつもイヤフォンで音楽を楽しむベイビーは、養父と過ごす時にはスピーカーを通じて、音楽を共有する。ここでベイビーが養父に心を開いているのは間違いない。しかし、悲しいことに、養父は、ベイビーの苦しみを真の意味で理解することが出来ない。養父はベイビーを愛し、ベイビーは養父を愛している。だが、養父は自分が聾唖であるために、耳鳴りというベイビーの苦しみ、そこから生まれるトラウマを理解し切ることができない。心を十分に開いていながら、自分を理解してもらえないというベイビーの悲しみが、ここには存在する。

 

物語が始まるまで、ベイビーはこうした苦しみを抱き続けていた。そんな彼の前に現れたのが、行きつけのカフェの新人ウェイトレス、デボラである。もちろん、彼女こそが、ベイビーの理解者となりうる存在だ。ここでようやく、物語が始まる。

この作品は最終的に社会からの逃避行の色を帯びていくが、その展開がああなってしまった(ネタバレ防止)のはある種必然だったと言えるだろう。しかし、物語を通じて少しずつ心を開いていったベイビーは、その過程そのものを通じて、最終的に自らを救済することになる。ベイビーが迎えるラストシーンは、爽やかで、そして美しい。

果たしてベイビーは、デボラとどのように向き合っていったのだろうか。続きは劇場で。

 

書きそびれていたが、この作品は脇を固める俳優が素晴らしい。ケビン・スペイシーの堂々とした立ち姿は悪役ながらほれぼれとするし、ジェイミー・フォックスの悪役っぷりも気持ちいい。一瞬しか出番のない登場人物ですら強烈な印象を与えていたりする。こうした周囲の登場人物の魅力も、主人公ベイビーの物語に美しい花を添えている。 

「ベイビー・ドライバー」オリジナル・サウンドトラック

「ベイビー・ドライバー」オリジナル・サウンドトラック

 

2017/10/3