日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

天気の子/Weathering With You(2019年)

天気の子/Weathering With You (2019年) 監督:新海誠

 

私たちが出会ってきた物語の続き

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雨が降り続く中、東京湾を進むフェリー。離島出身の高校生、森嶋帆高(醍醐虎汰朗)は、島での生活を捨てて東京の街まで家出してきた。自立を目指して仕事を探すも、家出した未成年ゆえに働き口は見つからない。なけなしの所持金でネットカフェ暮らしを続けるが、新宿・歌舞伎町での生活ほ帆高の心身を少しずつ傷つけていく。

残金が尽きた帆高は、家出するフェリーで知り合った須賀圭介(小栗旬)を訪ねる。すがるような気持ちで訪れた須賀は帆高を快く迎え、自ら営む編集プロダクションで記事を書かないかと誘う。帆高は住居と食事がつく条件に惹かれ、須賀のもとで働くことを決める。

須賀は雑誌『ムー』に怪しげな都市伝説を投稿するライター業を営んでいた。帆高は持ち前の真面目な性格でどんどん仕事に打ち込んでいく。ある日、ひょんな出来事からネットで流れている都市伝説「100%の晴れ女」について調べることになった。半信半疑で東京各地で取材を続ける帆高。そんな折、かつて歌舞伎町で知り合った少女、天野陽菜(森七菜)と再会するのだが…

 

 

 

『天気の子』は2019年上映のアニメーション映画で、監督は新海誠。『君の名は。』で国民的なアニメーション監督となった彼にとって7作目となる劇場アニメだ。

新海の作品を貫く美しい風景描写は健在で、「東京」のあらゆる側面を縦横無尽に描く。物語の始まりの地となる新宿・歌舞伎町をはじめ、代々木に銀座、品川に山手線と、東京にゆかりのある人びとならニヤリとしてしまう風景描写が盛りだくさん。東京の町並みをリアルなアニメーションとして切り出した*1映像は、場面ごとに単体で眺めていたくなる美しさだ。

 

そしてこの映像美が描き出すのは、東京の街に存在する苦しいほどのリアリティだ。
登場人物たちはそれぞれ異なった理由で生活に困難を抱えていて、町並みは直接的に、時に間接的に彼らを取り巻く状況を説明する。

主人公の帆高が新宿・歌舞伎町で過ごすシークエンスは説明の必要もないほど息苦しい。離島から身一つで出てきた彼は働き口を探し回るが、身分証のない家出青年を雇うまともな職場は存在しない。

街の悪い大人たちは無価値な少年を慈悲なく扱うし、本来守ってくれるべき警察官も、歌舞伎町という場所を歩く少年には人一倍厳しい。彼を唯一救うのはマクドナルドで差し出されるビッグマックだが、マクドナルドを一度でも訪れたことがある観客はあのシーンがフィクションだとすぐ気づく。

 

なんとかして歌舞伎町を抜け出した帆高が、次に出会うのは幼い弟と二人で暮らす陽菜だ。もうすぐ18歳になるという彼女は、身一つで働いて小さな生活を支えている。山手線沿線ながら人の気配がない田端駅南口近くのアパートは、今にも崩れそうな不安定さをかもしだす。

そして帆高の「抜け出した」先も、場末のスナックを改装した事務所を構える須賀だ。10代の登場人物たちが営む生活は常に不安定だ。安心して寄りかかるべき大人がいない中、彼らは半ば必然的に「力」を活用することを思いつく。「追い込まれて」使うのだ。

 

現状を打ち破るため、陽菜の持つ力を使った「晴れ女ビジネス」は、帆高と陽菜に大きな試練を与えることになるのだが…ネタバレになるので回避する。

 

代わりに、ここでは『天気の子』の問題点ともされる「説明不足感」について語ることにしたい。

『天気の子』は様々な面で非常に「語らない」作品だ。主人公の帆高を突き動かした「家出をした理由」は明らかにならない。陽菜が超常的な力を手に入れるようになったとされる経緯についても、事実起こったことが説明されるだけで、それが何故起こったのかについてはわからない。

劇中で登場人物たちの行動を大きく左右する小道具の出自についてもふわりと語られるにとどまるし、なぜ、代々木の廃ビルがああした性質を持つに至ったかについてもわからない。物語の最終局面に至っても、物事を動かす基準、世の中の原理原則みたいなものは曖昧なままだ。

わからないものはわからないままで、語られることがない。

 

ところで、映画作品は約2時間という時間の制約に縛られた媒体だ。

なにか物語を書こうとすれば、必然的に描くものを制限するしかない。森嶋帆高が生まれてから現在までをすべて描こうとすれば、それこそ16年分のフィルムが必要になる。けれども映画の作り手はそんな手段を決して選ばない。限られた時間の制約を守るべく、語るべきものを厳選し、いらないものを切り取っていく。

今回の『天気の子』で新海が選んだのは、ディテールの説明を「観客の経験に委ねる」ことだった。ここで重要なのは、「観客の想像に委ねる」ではないということだ。

 

1990年代のエヴァにはじまり、私たちはあまりにも多くの「ボーイ・ミーツ・ガール」、「セカイ系」と呼ばれる作品群を体験してきた。赤宮はいわゆるギャルゲーには明るくないが、そうした物語を理解するための素養はある。普通の人生を歩む中で、「わたしとあなたがセカイを左右する」物語は手の届くところにあったからだ。

 

何らかの個人的な悩みを抱え、生まれた街を飛び出す少年の物語を、私達はすでにどこかで経験している。

複雑な事情で両親を失い、半ば水商売に染まりながら学校に通えず、幼い弟を育てる少女の物語も、私達はどこかで体験している。

そしてもちろん、彼と彼女の間に起きた超常的な出来事がなぜ起こったのか、私達はどこかで学んでいる。

『天気の子』はそうした私たち観客が「どこかで体験した物語」を使い、プロットの欠如を大胆に補っている作品だ。

 

古川日出男は、代表作『ハル、ハル、ハル』で「この物語は全部の物語の続編だ」と綴った。彼が描いたのは読者が経験したすべての物語の先にある出来事だ。

 

では『天気の子』は、私たち観客の経験したすべての物語の先に、何を描いたのか。

 

答えはラスト1分にある。

 

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

 

 

2019/7/28

*1:これロトスコープだよね?