日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

未来を花束にして/Suffragette(2015年)

未来を花束にして/Suffragette(2015年)監督:サラ・ガヴロン

 

言葉ではなく、行動を。


映画『未来を花束にして』予告編

洗濯工場で生まれ育ち、そこで働き続けてきたモード(キャリー・マリガン)は、ある日女性活動家たちによる過激な抗議活動を目の当たりにする。彼女たちは、「サフラジェット(Suffragette)」と自称する、女性への普通選挙権付与を目指す闘争的な政治活動家だ。法律に沿った目的の実現を諦め、女性による実力行使を通じてその目的を実現しようとしていた。

そうした活動にさほど興味を抱いていなかったモードだったが、同僚のヴァイオレット(アンヌ=マリー・ダフ)に誘われ、議会の公聴会を傍聴することになる。傍聴だけのつもりだったモードは、成り行き上、急遽公聴会で証言をすることになってしまった。困惑する彼女ではあったが、質問に毅然とした態度で答え、見事議会の出席者たちから強く同情を集めることに成功した。

公聴会の成功を受けて、サフラジェットの間では女性選挙権が認められるという機運が高まっていく。そしてモードも、公聴会での出来事をきっかけに、サフラジェットへの関わりを深めていく。しかし、議会が発表したのは、現行の選挙制度に問題はない、女性への選挙権付与は認めないという見解だった。…

 

 

 

映画は、私たちが当たり前だと思っているものごとについて、改めて見直す機会を与えてくれることがある。『未来を花束にして』は、史実上の女性活動家をモデルにした作品であり、今日では当たり前となった女性選挙権が、多くの努力と犠牲を払って獲得されてきたものかを示すものとなっている。

 

物心がついたときから洗濯工場で生活してきたモードは、自分が置かれた厳しい環境、男性に比べて劣悪な環境で働くことが、「当たり前」だと思って生活してきた。そんな彼女は、ふとしたきっかけから「サフラジェット」と出会い、徐々に社会の不平等を自覚し、時に過激な手段を用いて社会と闘っていく。

 

そんな彼女に、男たちは厳しい視線を向ける。初めこそ寛大な態度で接していたモードの夫も、その活動が進むにつれ、その態度を硬化させていく。もちろん、警察に連行され、傷をつけて帰ってくる妻の姿を見れば、夫の態度も理解できないこともない。しかしモードを見る夫の眼は、単に悪事を犯したことにとどまらない、煮えたぎるような感情を帯びていくように見えるのだ。「女のくせに」、とでもいうような、そんな冷たさがある。

そして興味深いことに、女たちでさえも、政治活動に勤しむサフラジェットに対しては、非常に厳しい評価を与えている。洗濯工場で働く女たちの大半は、サフラジェットに参加するモードたちのことを快く思っていない。権威をもつ工場長の意向に沿って、時には表立って嘲笑することすらある。女性全体たちのために闘っているサフラジェットが、当の女性によって非難されるという、なんとも皮肉な光景がそこにはある。彼女たちもまた、「女のくせに」とでもいうような眼で、モードたちを見つめている。

 

『未来を花束にして』は、男女双方から蔑まれるサフラジェットの姿を描くことを通じて、女性選挙権の問題が、「男性と女性との戦い」ではなく、「社会の大多数と一部の女性の闘い」であったことを明らかにしている。

そしてこうした構図は、サフラジェットの闘いの孤独さを一層際立たせている。劇中、サフラジェットが活動するシーンの多くでは、スクリーンに青白いフィルターが使用されているのだが、これはサフラジェットが感じる不安や孤立感を醸し出すことに成功している。薄暗いスクリーンの中で展開される彼女たちの活動は、決して社会に胸を張れるものとは限らない。時として過激な手段に訴えるサフラジェットは、どう考えても正当化できない局面にまで至ることもある。彼女たちも一定の罪悪感を覚えている。それでも、活動を続けなければ現状は変わらない。そんな葛藤を抱え込みながら、サフラジェットは政治活動を続けていく。

 

『未来を花束にして』は、サフラジェットの活動の功績を称えつつも、決して手放しで賞賛する作品ではない。その活動の暴力性、カルト的なメッセージ性については、男性や他の女性の観点から一定の批判が加えられている。

しかし、すべてを犠牲にして活動に打ち込むモードの姿には、どうしても共感せざるをえないところがある。サフラジェットの中心にあった知識層ではなく、最前線に立った普通の女性を主人公に据えたこのプロットの勝利だろう。

2017/11/16