日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

バベル/Babel(2006年)

バベル/Babel(2006年)監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

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静養のため、モロッコを旅行していたジョーンズ夫婦。夫のリチャード(ブラッド・ピット)と妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)は、バスに乗ってモロッコの広大な大地を走っていく。彼らは、自分たちの子どもを亡くして以来、なんとなくお互いを信頼できないようになっていた。会話をしているだけでなんとなく苛立ってくる。夫婦らしく手を繋いでみても、あまり長くは続かない。

バスがモロッコの片田舎に差し掛かった頃、そのバスを見つめる二人の兄弟が居た。裏取引で手に入れたライフルを片手に、兄のアフメッド(サイード・タルカーニ)と弟のヨセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)は、ちょうどいい射撃の的を探していた。初めは身近な岩を狙っていた二人だったが、お互いに張り合いを続けるうちに、動くバスを的にしよう、ということで合意する。初めに、アフメッドが引き金を引いた。銃声が響く。バスは何事もなかったように走り続ける。今度はヨセフがライフルを引き取って、引き金を引いた。やはり、反応はない。何事もないようにバスは走り続けている。二人はお互いを馬鹿にしつつ、どこか安心した表情を浮かべていた。

そして突然、バスが停車した。スーザンの肩からは、止め処なく血が流れ出している…

 

 

 

『バベル』は2006年公開のアメリカ映画だ。アメリカ・メキシコ・モロッコ・日本の四カ国をまたがる壮大かつ繊細なストーリー、そしてブラッド・ピットと日本の役所広司菊地凛子らが間接的に共演したといった事情から、公開当時は割と日本でも話題になった作品だ。とくに菊地凛子はこの作品でアカデミーの助演女優賞にノミネート、惜しくも受賞には至らなかったものの、その他の多くの映画賞を獲得することに成功した。

ただし、その作品の話題性に比べ、『バベル』の内容はそれほど大衆受けを狙ったものではない。この作品が扱うテーマは言葉の欠如=ディスコミュニケーション、つまり言語の壁や障がい、相互不信によるコミュニケーションの困難さを抱える人びとの姿を捉えるもので、いわゆる大作ハリウッド映画の王道作品とは言い難い。それに加え、『パルプ・フィクション』に見られるような複雑なプロットを不親切な形で採用しているため、軽い気持ちで鑑賞し始めた観客には少々負担をかけるものでもあった。こうした事情から、『バベル』はつまらない、よくわからない映画として評価を受けることが多い(検索をかけてみれば、その低評価ぶりに驚くことだろう)。

 

とはいえ、見方を変えてみると、『バベル』はかなり面白い映画だ。今回の記事では、ストーリーはつまらないかもしれないけれど、それでも面白い『バベル』の楽しみ方を学んでいこう。

 

さて、前置きしたように、『バベル』の魅力はストーリーではない。あらすじで書いたように、ブラッド・ピットら演じるアメリカ人夫婦が、不運に巻き込まれる、ただそれだけのものだ。伝統的なハリウッド映画作品ならば、おそらくブラピが奮闘し、真犯人を捕まえたり、医者を探すべく一人荒野を駆けたりするのだろうが、『バベル』では全くそういったストーリーがない。彼は感情を発露させ、自分たちが巻き込まれた不運に憤るものの、それを打開しようとして行動できるわけではない。つまり、ブラピは主人公の一人ではあるが、ストーリーの展開は彼を中心として進むわけではない。

だから、ブラピが登場するシーンを目にする時、観客はただただ、怒り悲しむブラピを見ているだけに過ぎないのだ。時間だけが刻々と流れ、妻との会話も物悲しい。しかし、モロッコの片田舎、言葉もほとんど通じない、医者もいないような場所で、ブラピにできることは何もない。

ファイト・クラブ』や『オーシャンズ11』で見せたような、ストーリーを動かす立場を演ずるブラピに期待して『バベル』を見た観客は、おそらくこういうところで違和感を覚えるのだろう。しかし、そもそもこの映画におけるブラピはヒーローではない。被害者なのだ。観客は、異国で苦しむ彼の姿を観察しているに過ぎない。

 

日本のシーンで菊地凛子演ずる千恵子、メキシコのシーンでのアメリア、モロッコでの兄弟についても同じことが言える。『バベル』においては、主人公たちの行動がストーリーを形成していくという、ハリウッドの古典的王道が履修されていない。彼女たちは周りから襲ってきた変化に対して反応しているにすぎず、観客はその姿を見ているだけだ。そうした彼女たちの行動間の繋がりがストーリーを形作るわけなのだが、確かに王道的なストーリーに比べると退屈なのは否定できない。

 

では、なぜイニャリトゥ監督はこうしたストーリーを採用しているのか。先に述べた通り、『バベル』はディスコミュニケーションをテーマにした作品だ。そしてコミュニケーションを上手く取れないことがもたらす困難は、なにか危機が訪れた時により表面化する。亡くなった子どものトラウマを背負うジョーンズ夫婦、耳の聞こえない千恵子、不法就労者として働くアメリア、お互いに違和感を覚えるモロッコの兄弟。彼らはそれぞれ、何かうまく伝えられないことを抱えていて、それゆえに苦しみを覚えている。

一般的な映画では、コミュニケーションは暗黙の前提として存在している。キャラクターたちは何不自由なく意思疎通を図るし、争うことがあっても、結果としてコミュニケーションにもとづいて行動や思考が変化していく。しかし『バベル』では、この暗黙の前提が本当に成立するのか、という問いが投げかけられているのだ。だとすれば、人びとの交流、コミュニケーションを通じて問題を解決するというストーリーを採用することはできない。一般的なストーリーの前提となるコミュニケーションが不安定なものである以上、その上に組み上げられるストーリーも、また不安定なものにならざるを得ない。その結果生まれたのが、『バベル』のある種不可思議な、どこか奇妙なストーリーであると考えることができるだろう。

 

一旦『バベル』のストーリーを捉え直すと、映画内で用いられる形式の数々が、ディスコミュニケーションの表現に大きく貢献することが分かる。その顕著な例として、「主観的表現と客観的表現の切り替え」に注目しよう。

 

日本のシーン、菊地凛子の登場シーンでは、主観的表現と客観的表現が素晴らしく巧妙に用いられている。耳の聞こえない女子高生、千恵子は、あるトラウマから夜遊びを繰り返すのだが、その中のクラブを訪れたシーンの演出が絶妙なのだ。観客は、千恵子がクラブにやってきたシーンで、会場内に鳴り響くクラブミュージック、光り輝くネオンを同時に体感する。音楽は会場の盛り上がりに合わせて大きくなっていく。そして、そろそろサビに入ろうか…というとき、突然映像が千恵子の視点から撮ったものに置き換えられ、同時に一切の音が消え失せる。ここで観客は、千恵子が実際に体験しているクラブの雰囲気を共有するのだ。ピカピカとネオンが光り、音楽が鳴り響いている「らしく」、それに合わせて若者が踊り狂っている。しかし千恵子はその音楽が聞こえない。目の前の男が踊っていても、それに合わせて踊ることも難しい。クラブに至るまでのシークエンスを通じ、千恵子が耳の聞こえないという前提知識を十分に学んでいた観客は、ここに来て千恵子の孤独を知るのだ。明るく楽しい雰囲気なのに、千恵子は周囲から隔絶された場所に置かれている。彼女は、そうしたクラブの雰囲気とコミュニケーションを取ることができない。観客はその疎外を体感し、その後またすぐに音楽の鳴り響く中立ちすくむ千恵子の姿を見る。その姿は先程とさほど変わりないものだが、もはや同じ視点から見ることはできない。彼女の感覚を体験したあと、観客はコミュニケーションを取れないことの悲しみを十分に知っている。そしてこのシークエンスこそが、千恵子がその後行う、一見奇行にも見える行動についても、観客の同情を喚起できるように準備をしている、と評価することができる。

 

 

 

『バベル』は、日本での大規模な宣伝活動からハリウッドの王道作品として期待されがちだったが、その内容はどちらかというと精神的問題を扱ったヘビーなものであったため、「期待はずれ」の烙印を押されがちな作品である。

しかし、その内容を丁寧に見ていくと、ディスコミュニケーションという難しいテーマを表現しようとし、一定の成功を修めた作品として評価できるだろう。もし、なんとなく手を出せていないのであれば、この機会にぜひ鑑賞してほしい作品だ。

バベル (字幕版)

バベル (字幕版)

 

2017/11/9