日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

ソラリス/Solaris(2002年)

ソラリス/Solaris(2002年)監督:スティーブン・ソダーバーグ


SOLARIS (2002) - Official Movie Trailer

地球で無為な日々を過ごす精神科医のクリス(ジョージ・クルーニー)は、友人で宇宙飛行士のジバリアン(ウルリッヒ・トゥクル)からビデオレターを受け取る。遠く離れた「プロメテウス」で惑星ソラリスの探索に従事する宇宙飛行士のジバリアンは、理由は示せないものの、どうしてもクリスに「プロメテウス」に来てほしいのだ、という意思を告げる。

友人、そして精神科医として、ジバリアンの思いに応えるべく、クリスは宇宙に上がり、「プロメテウス」に到着する。しかしクリスが到着した時には、ジバリアンは既に自殺してしまっていた。

ジバリアンの死を調査すべく、船内を捜索するクリスだったが、乗組員たちの様子はどこかおかしい。妙に慌てた態度を取る者、自分の部屋を見せようとしない者…そしてクリスは、地球から遠く離れた「プロメテウス」に存在するはずもない、無垢な少年が船内を走り回る姿を目撃する。

疲れ果てたクリスは、自室で一人眠りにつく。夢の中、クリスはかつて亡くした妻のレイアの面影を反芻する。そして「プロメテウス」の自室で、レイアがクリスの頬に手を触れる。…何かがおかしい。これは夢ではない。地球から遠く離れた「プロメテウス」で、亡くなったはずの妻が自分の隣りに居る。…

 

さて、昨日に引き続き、本日も『ソラリス』を取り上げよう。昨日の記事を前提にして話を進める部分が多いので、まだ読んでいない方は先にそちらを読むことをオススメする。

cinemuscular.hatenablog.com

2002年にスティーブン・ソダーバーグ監督(『オーシャンズ11』『エリン・ブロコビッチ』)、ジェームズ・キャメロン(『ターミネーター』『タイタニック』)制作で撮影された『ソラリス』は、スワニスタフ・レム原作の『ソラリス』(以下では「レムの原作」と表記する)を映画化したものだ。昨日取り上げた1972年の『惑星ソラリス』以来、2度目の映画化となる。

大筋のストーリー展開は1972年版と変わらない。地球で過ごしていた主人公が友人との関わりで「プロメテウス」に向かい、そこで亡くなったはずの妻と再会する、というストーリーだ。

1972年版と比べたときの大きな変更点は以下の2つだ。他にもたくさん小さな違いがあるので探してみると面白いかもしれない。

  • 地球のシーンが大幅にカットされている。映画が始まって、短いオープニングを終えた5分後くらいには、もうクリスが「プロメテウス」に到着している。(1972年版ではクリスが「プロメテウス」に到着するまで40分以上を要している)
  • ラストの結末。ちなみに、1972年版と2002年版のどちらもレムの原作に忠実ではない。

 

キャラクター造形に関しては、中年か老人科学者ばかりだった1972年版に比べると僅かながら多様化している。黒人女性と若く気のいい男性。ただ、尺の都合なのか、どちらもそれほど魅力的に描かれていないのが惜しい。…と思いきや、それなりの理由があったりするのが憎めないところだ。

 

…とまあ、大変オーソドックスな、お茶を濁すような形式分析をしてしまったわけだが、これにはそれなりの理由がある。

2002年版の『ソラリス』は、普通につまらない作品なのだ。形式的な分析をしようにも、ストーリーやキャラクター、世界観や流儀などがどこもかしこもつまらない。意欲的な試みも皆無で、いたって普通のB級SF作品なのである。

 

地球から遠く離れた、意思を持つらしい惑星の近くで、亡くなったはずの妻と出会う。基本設定の面白さには目を引くものがあるが、そもそもそれはレムの原作の借り物だ。それを全くと言っていいほど上手く活かせていない。

ストーリーの多くの部分が主人公と元妻の回想に費やされており、ソラリスはおろか、「プロメテウス」を映した場面もあまりない。徹底的に描写を重ねるレムの原作や、芸術的な構図で一気にイメージを喚起するタルコフスキーと比べて、ゾダーバーグの『ソラリス』は前提の説明があまりに乏しい。

観客はソラリス、「プロメテウス」、そして超常現象を体験するわけで、もっと「慣らし」の時間が必要なはずなのだ。その点、タルコフスキーはある種冗長にも思えるソラリスを巡る議論、「プロメテウス」への接近シーンをゆっくりと(かつ退屈に)描き、かつモチーフを効果的に利用することによって「慣らし」をたっぷりと行っている。逆にゾダーバーグの『ソラリス』にはそれが欠けている。地球で物語が始まったと思ったら、いつの間にか「プロメテウス」に居て、そこからすぐに超常現象に巻き込まれてしまうわけなのだ。劇場版クレヨンしんちゃんでももう少しスローペースだぞと言いたい。

 

しかし、ここまで叩いておいて、なお「日刊映画日記」が、記念すべき50回目に2002年版『ソラリス』を取り上げたことにも理由がある。確かにストーリー諸々の点で至らぬところの多いB級映画作品なのだが、目指そうとしたところは悪くなかったように思うのだ。

昨日批判したタルコフスキー版『惑星ソラリス』の問題点は、意思を持つ知的生命体であるソラリスの海の主体性を無視し、それを単なる舞台装置として使い潰してしまったところにあった。レムがその原作で一冊まるまる使って語り尽くしたソラリスの多様性、その不可思議さを、タルコフスキーは「舞台設定」程度に消化してしまったわけなのだ。

他方で、ゾダーバーグの『ソラリス』では、至らぬところは多いにせよ、なんとかして主体としてのソラリスを描こうとする努力が垣間見える。皮肉なことに、その他のあらゆる点で1972年版の『惑星ソラリス』に劣ると言っても過言でないこの作品には、タルコフスキーの犯した大きな失敗を埋める可能性が秘められているのだ。この努力こそが、2002年版『ソラリス』の魅力であり、その全てなのである。

 

さて、2002年版『ソラリス』の努力を見ていこう。

まず述べなければならないのが、主人公たちによる「ゲスト(=「プロメテウス」内に現れた、居なくなってしまったはずの人たちのこと)」の扱いについてだ。原作や1972年版とは異なり、一部の登場人物は「ゲスト」を明確に敵として認識する。

その中でも、強い敵意をもって彼らに接するのがゴードンという女性乗組員だ。彼女は「ゲスト」たちを一刻も早く消失させようと、専用の装置を作るべく苦心する。しかし、彼女は単に「ゲスト」そのものを危惧しているわけではない。「ゲスト」の背後、彼らを作り出したとされるソラリスの存在を彼女は恐れているのだ。

ここでは、1972年版では無視されていた主体としてのソラリスの存在が想定されている。ソラリスは人類に何か敵意を向けてくるかもしれない。「ゲスト」は私たちを困惑させる手段なのかもしれない。ゴードンは地球を代表する宇宙飛行士として、「ゲスト」への融和を断じて認めない。

 

他方で、「ゲスト」への想いをどうしても捨てきれないのが、主人公のクリスだ。彼は妻を死なせてしまった自責の念から、目の前に現れた妻の形をした「ゲスト」を通じ、自分は贖罪の機会を得たのだと確信していく。自分は彼女と、何度でもやり直す機会を得たのだと確信する。もう一度彼女と過ごすことで、今度こそは上手くやれると信じているのだ。

しかし、精神科医としての科学的知見が邪魔をするのか、クリスも「ゲスト」を妻そのものと認めることはできない。クリス自身、「ゲスト」の背後にあるソラリスの存在を感じている。目の前に居る妻はソラリスが生み出した産物に過ぎない。クリスは十分わかっているのだ。

そしてクリスは、ついに「ゲスト」といかに向き合うかについて決断を下す。ネタバレになるので言及は避けるが、確かに言えるのは、クリスは「ゲスト」を通じてソラリスと向き合ったということだ。目の前にあるのが、「ゲスト」を媒介として存在するソラリスである、ということを、クリスははっきりと認識しているのだ。

 

そして、ソラリス自身にも、ゴードンとクリスたちを「見ている」ような描写が散見される。クリスの元に「ゲスト」が届けられるのは、いつだってクリスが眠った時、クリスが夢で回想を経たあとだ。だとすれば、観客がスクリーンを通じて見るクリスの回想は、ソラリスがクリスの意識を読み取っている場面であると推測できないか。ソラリスは、クリスの夢、そして意識を読み取ることで、彼の大切な人の姿を形作っているのではないか。彼が夢から目を覚ました時、そこには「ゲスト」が待っている。

加えて、エンディングにおける、一見意味不明な展開も、ソラリスの反応の一つと考えれば理解できる。あのシークエンスの直前、誰がどのような行動を取ったのか。その行動はどのような結果をもたらすのか。よく考えながら鑑賞してほしい。

 

要約すると、ゴードンとクリスの「ゲスト」に対する姿勢は、ひいてはソラリスに向けられている。そしてソラリスは、自らに向けられた姿勢に応じて、主体性を持って反応するのだ。1972年版『惑星ソラリス』で描かれなかった、人びととソラリスのコミュニケーションの可能性が、2002年版の『ソラリス』には存在していることになる。

残念なのは、こうしたソラリスの主体性を描きかけた2002年版『ソラリス』が、その完成度の低さから、十分にその偉業を成し遂げられなかったことだ。以上行ってきた分析は、レムの原作や1972年版の『惑星ソラリス』と照らし合わせて行ったものであり、2002年版『ソラリス』単体では読み取りづらい内容も多く有る。

こうなってしまった原因は明らかに監督や制作陣の力量不足にあり、その結果として『ソラリス』が微妙なB級映画に陥ってしまったことは残念でならない。

 

原作者レムが生み出した『ソラリス』は、今もなお映像化に成功していない作品であると結論付けるのが正解なのかもしれない。

しかし幸運にも、私たちには1972年版『惑星ソラリス』、2002年版『ソラリス』という、意思疎通の測れない知的生命体ソラリスの理解に迫る手がかりが与えられている。

さあ、レムの原作を手に取り、2つの映画を手がかりに、ソラリスの神秘性に触れてみようではないか。赤宮が前後編のソラリス記事で論じてきたことは、あくまで一個人の見解にすぎない。赤宮はソラリスに触れるきっかけを用意した。あとは手を伸ばすだけだ。ソラリスはきっと、あなたを待っている。

ソラリス (字幕版)

ソラリス (字幕版)

 

 (原作。)

2017/11/5