日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

吸血鬼ノスフェラトゥ/Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens(1922年)

吸血鬼ノスフェラトゥ/Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens(1922年) 監督:F・W・ムルナウ


Nosferatu (1922) - Trailer

不動産屋で働くフッターは、上司ノックの命令で辺境に住むオルロック伯爵の城に契約書を運びに行く。不気味な空気を醸し出すオルロックにたじろぐフッターであったが、オルロックの貴族らしい豪勢なもてなしに感動する。

その夜、辺りの雰囲気が妙に暗いことに気がついたフッターは、寝室のドアを開き、外の様子を確かめる。しかしそこには居たのは、数百年生き続ける吸血鬼としての正体を表した、オルロックの姿だった。…

 

吸血鬼ノスフェラトゥ』は1922年のドイツで制作された白黒サイレント映画であり、世界で初めてのホラー映画だ。先日紹介した、1920年制作の『カリガリ博士』と同じく、ドイツ表現主義の影響を強く受けている作品で、幾何学的な構図や背景、カラーフィルターを使った雰囲気作りなど、技法的に共通する部分も多い。

 

この作品で語る上で欠かせないのは、「世界で初めての」ホラー映画という点だ。1920年代の白黒サイレント作品ということもあって、赤い血を安易に撒き散らすスプラッターなホラーは演出できないし、CGや特殊メイクを使ってリアルな吸血鬼を演出することもできない。そもそも襲われる人びとの悲鳴の音声すら録音することができないのだ。

現代から見れば、こうした白黒サイレントの諸要素は映像の可能性を狭めているようにも見える。現代の技術からすると、昔の映画ではできることが少なかった、と思う人も多いのかもしれない。

しかし、『吸血鬼ノスフェラトゥ』のようなホラー映画の古典が教えてくれるのは、映像技術が無くても恐怖を演出することはできるし、音がなくとも人びとの悲鳴を表現することは可能だということだ。

あなたがじっくりと丁寧に『吸血鬼ノスフェラトゥ』を鑑賞し終わったとき、きっと気づくことだろう。新技術の発明は映像の幅を広げるかもしれないが、かつての技術を深める余地を失わせているのかもしれない、ということを。

 

さて、『吸血鬼ノスフェラトゥ』におけるホラー演出を少しだけ見てみよう。

最初に言っておくが、ノスフェラトゥ、つまりオルロック伯爵の吸血鬼姿は、正直あんまり怖くない。渋谷のハロウィンで見かけそうなレベルだ。

 

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(あまり怖くないことで有名なノスフェラトゥさん)

 

おそらく、この吸血鬼の姿は原作から浮かんだイメージをそのまま形にし、かつ役者が演じれるような形で生み出された妥協の産物なのかもしれない。だが、心に留めて置いてほしいのは、そもそも人間でない登場人物が映像に現れるということが、当時としては画期的であったということだ。

現在につながる全てのモンスターたちは、この吸血鬼から始まったといって過言ではない。人間でないものを登場人物として映画の中に登場させるために、役者を少しでも人間から引き離そうとした。その結果が、悪魔じみたツルツルとした頭部と、人間より少し長い指先なのだろう。

 

しかし、伯爵をいかにして恐怖をもたらす存在にするか、という問いについて、『吸血鬼ノスフェラトゥ』は様々な方面から答えを与えようとする。

技法の面で言えば、例えば、伯爵を直接スクリーンに登場させるのではなく、その影のみを画面に移す方法。

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(影は怖い、ノスフェラトゥさん)

この影から、観客は恐ろしい存在としての吸血鬼を思い描くだろう。牙を剥き、今にも血を吸わんとする…そんな存在がヒロインに襲いかかろうとしている。観客の脳内には実際以上に恐ろしい存在として映ることだろう。

 

そして、何と言っても素晴らしいのは、ストーリー面での演出方法だろう。

伯爵は吸血を除いて直接人を傷つけることをしないが、彼には人間を恐怖に陥れる決定的な側面がある。それは、ペストらしき伝染病を運ぶ存在であるということだ。

伝染病を通じて、主人公たちの街に住む人びとの中でも犠牲者が増えていく。街中を横断する数々の棺。それを見た主人公たちは、吸血鬼を倒さなければならない、と強く決意するわけだ。ここで、主人公たちと吸血鬼の敵対関係は、伝染病というわかりやすい脅威によって媒介されている。観客は、伝染病という脅威と吸血鬼を重ね、彼を恐ろしい存在として認識するようになるのだ。

 

よくよく考えてみれば、等身大の人間程度の大きさしかなく、どこかコミカルですらある吸血鬼は、それ自体では人間の脅威たりえない。ムルナウ監督もそれをよく理解していたのだろう。彼は吸血鬼の脅威を直接描写するのではなく、影なり伝染病なり、間接的に描くことを選択する。その結果、どこかコミカルだった吸血鬼は、いつの間にか恐ろしい存在に映るようになる。

世界初めてのホラー映画は、恐ろしいものをありのままに描くのではなく、一見恐ろしくないものを、間接的に恐ろしく描く、という手法を採用しているのだ。

 

イオニア的な作品にありがちなことではあるが、この作品はどこか盛り上がりに欠けるところがあるし、決して手放しで傑作と褒められる映画ではない。

しかし、現在と比べて技術的な制限がある中で、それでも恐怖を描こうと試み、それを一定程度成功させた『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、なにか新しい世界を生み出そうと思っている人びとにとって、何か良い影響をもたらす作品なのではないかと感じる。 

吸血鬼ノスフェラトゥ 《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

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2017/11/1