日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

カリガリ博士/Das Kabinett des Doktor Caligari(1920年)

カリガリ博士/Das Kabinett des Doktor Caligari(1920年)監督:ロベルト・ヴィーネ


Recondite - The Dystopian Cabinet of Dr. Caligari | Silent Series *1

どこかジメジメとした薄暗い場所、生い茂る枯れ木の真下で、二人の男が肩を並べて座っている。その内の一人、青白い顔をしたフランソワ(フリードリッヒ・フェーエル)は、夢を見るような表情で、つらつらと話をしていた。初老の男は、それほど気分が良いわけではないらしく、少々困惑した顔をしながら聞いている。

少し離れたところから、白い服を着た女性(リル・ダゴファー)が歩いてきた。ヤナギらしき木の枝をかき分けてやってくる彼女の姿は、まるで王女のように美しい。それを見つけたフランソワは話をやめ、彼女の方をじっと見つめた。彼の表情は子供みたいにぱあっと明るくなり、不健康そうな青白さは消えてなくなってしまう。その変わりように、初老の男は一層困惑した表情を見せた。

「彼女は、ぼくのフィアンセなんです」と、フランソワは言う。訝しそうに顔をしかめる初老の男だったが、それに構わず、彼は話を続ける。「彼女とぼくは、きっとあなたが味わったことのないくらい奇妙な体験をしたのです」。…

 

 

 

カリガリ博士』は、1920年にドイツで公開されたサイレント映画だ。起承転結のシンプルな映画が多かった時代、キャラクターによる回想を用いて複雑なストーリーを描いたという目新しさ、そしてドイツ表現主義の影響の下、絵画と見間違えるような幻想的な映像を作り上げたというアーティステックな性質から、歴史に残る古典として、今なお強い影響力を及ぼしている。

カリガリ博士』をストーリーの観点から特徴づけるのは、キャラクターによる回想を革新的に利用したという点だ。もちろん、今の時代からすると、回想を使ったストーリー作りというのはごく平凡な手法となっている。しかし、こうした手法は、映画が生まれた時から存在していたわけではない。

この映画が公開された1920年当時のサイレント映画は、日常の出来事や事件を時間の流れ通りに切り取ったような作品が多かった。キャラクターたちが平凡な生活を送っていると、事件が起こり、警察がやってきて、犯人を見つけて、みんなで捕まえる、という、一方通行のようなストーリー作品ばかりだったわけだ。

だからこそ、そんな流れの中、キャラクターが「過去」を振り返り、その「過去」ばかりが主として語られ、最後に「現在」に戻ってくるという『カリガリ博士』の構造は、当時としてはかなり新しいものだった。今となっては平凡になっている手法だとしても、その起源の一つであるという点で、『カリガリ博士』の回想には価値がある、というわけだ。

ただ、ここで一言付け加えておきたいのは、『カリガリ博士』の回想構造は平凡であれ、決してつまらないものではない。それどころか、作中終盤、回想を巡るシークエンスでは、映画史に残ると言われる展開が待ち構えている。シンプルな手法ではあるが、その効果は絶大だ。ぜひ自分の眼で確かめていただきたい。

 

ところで、キャラクターによる回想、というと、この『日刊映画日記』の読者の皆さまの頭の中には、『グランド・ブタペスト・ホテル』が浮かぶことだろう。『カリガリ博士』から90年強経過して作られたこの作品では、様々なキャラクターの回想を辿るという形でストーリーが進んでいく。もちろん、何人ものキャラクターたちの回想を追っていくため、『グランド・ブタペスト・ホテル』で用いられている回想は『カリガリ博士』よりも複雑な構造を形成している。こうした複雑な回想の使い方にも、その始まりには『カリガリ博士』などの革新的作品の存在があったことを心に留めておきたい。

 

さて、ストーリーの話が終わったところで、魅力的な映像の話をしよう。じつはこちらが本題だ。二枚ほどスクリーンショットを貼ってみよう。

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 これらの画像は、ともに『カリガリ博士』の一場面を切り取ったものだ。この異様さを感じてもらえただろうか?『カリガリ博士』はカートゥーン映画ではなく、れっきとした実写映画作品だ。にもかかわらず、映し出される背景は絵画のようで、見ているこちらの認識を深く揺さぶってくる。

キャラクターたちは、こうした絵画のようなセット、絵画のような背景、絵画のような舞台の上で、ストーリーを進めていくことになる。セット、背景、舞台が全て絵画のように見えてしまうため、映画を見ていくうちに、あなたはなんだか妙な感覚を覚えていくはずだ。どこまでがセットで、どこからが背景、舞台なのか。絵のように見えた道路が本物の道路だったり、通れそうに見えた箇所が実は背景だったりと、『カリガリ博士』の映像はどこまでも観客の視覚を困惑させてくる。

それでも、まだ、キャラクターたちがキャラクターとして動いているうちは、彼らを通じて、自分たちが見ている映像を実写映画として認識することができる。しかし、もしもキャラクターすら、絵画に見えてしまったらどうなるのだろう?

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どうだろう。この場面を見て、何の情報もなく、はっきりと木々と人間を見分けることができるのだろうか。いくら頭でわかっていても、木と人間が同じように見えてくるのだ。かろうじて、人間の顔の白さ、それだけが木と人間を区別している。逆に言えば、それ以外、木と人間に違いはない。

 

ほら、もはやこの映画において、映像の各要素は互いに大差ないものになってしまった。キャラクターも背景も舞台もセットも、何やら絵画のように見えてしまう。それぞれが絵画の要素に過ぎなくなった以上、私たちに各要素をはっきりと見分けることなどできるのだろうか。

こうして、『カリガリ博士』は、その幻惑的な映像を通じて、あなたが普段見ているものごとを解体し、ものごとが持つ本当の意味を問いかけてくるのだ。

 

考えてみれば、私たちが普段見ているCG映像、あれは要するにテクスチャーの寄せ集めにすぎない。あなたが今見ているスマホだとかPCに見出しているものは、ガラスの向こうの液晶が揺れ動いた結果にすぎない。

私たちはたくさんのものごとを区別している。けれどもそれは、区別している気になっているだけかもしれない。本当は、区別できるほど、ものごと同士に大差はないのかもしれない。大差のないものごとを、無理矢理区別しているだけなのかもしれない。

 

カリガリ博士』が古典的傑作たる理由は、それが革新的な手法を導入したと同時に、映像を通じて普遍的な問いを投げかけ続ける作品だからだ。あなたが持っている常識を根底から揺り動かす魔力が、この作品には存在する。

カリガリ博士【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

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2017/10/25

*1:著作権フリー。Youtubeに全編上がってます