日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

マトリックス/The Matrix(1999年)

マトリックス/The Matrix(1999年)監督:ウォシャウスキー兄弟*1


The Matrix Trailer 1999

ソフトウェア会社に勤務するネオ(キアヌ・リーブス)は、裏世界では凄腕ハッカーとして名のしれた存在だ。最近、彼は日常生活の中に何か妙な違和感を覚えるようになった。「起きているのに夢を見ているみたいだ」。

ぼんやりと日々を過ごしていたネオは、ある日、自分のコンピュータに謎のメッセージが届いていることに気がついた。「目覚めよ、ネオ」「マトリックスが君を見ている」「白ウサギについていけ」。意味不明なメッセージに困惑するネオだったが、その直後に白ウサギのタトゥーを彫った女性と遭遇し、彼女の後を追うことを決意する。

そこでネオが遭遇したのは、自分と同じくハッカーとして知られていたトリニティ(キャリー=アン・モス)。彼女はネオに対し、伝説的ハッカーであるモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)がネオを探していることを告げる。

やがて、ネオは世界に対する違和感の正体を確かめるため、モーフィアスの元を訪れる。そこで知らされたのは、自分たちが住む世界が、コンピュータに寄って作られた仮想現実であるということだった。困惑するネオに、モーフィアスは二つの選択肢を提示する。このまま仮想現実で生きるか、それとも現実の世界で目覚めるか。…

 

赤宮と同世代の人たちなら、『マトリックス』には一定の愛着があるに違いない。1999年の公開当時、テレビは報道番組からバラエティまで『マトリックス』一色で、子ども同士の遊びでも『マトリックスごっこが流行った記憶がある。


マトリックス弾除けシーン
(多分みんな一度は真似したはずだ。)
そういった社会現象にまでなってしまった作品だからか、『マトリックス』はそのCG効果、アクションの派手さばかりに着目され、単なるエンターテインメント作品として消費されることが少なくない。「派手な、よくわからないけど、グラサンの人たちが闘う映画でしょ?」そういうイメージを持って、何となく見ないままでいる、という人も多いだろう。
だが、赤宮はここではっきりと言いたい。『マトリックス』は名作だ。それも、1999年に影響力を持った古典的名作としてではなく、2017年現在において見るべき名作なのだ。

 

先に述べたとおり、この作品におけるわかりやすい魅力は、当時最新鋭のCG技術やアクションシーンの数々だ。開幕からデジタルじみた映像が流れ、世紀末にふさわしい近未来感をうまく表現している。場面ごとに加速していくアクションシーンは、ワイヤーアクションやバレット・タイムという伝統的手法を、最新のCGと組み合わせるという革新的な方法で表現することに成功している。

だが、一般に、こうした先鋭的な試みというのは、得てして批判を招きやすい。クリストファー・ノーランの『メメント』で顕著だったように、その時代において革新的な手法というのは、どうしても何かしら不備を生んでしまうものだ。後にその後継者たちが欠点を少しずつ改善していくとはいえ、往々にして、革新的な出来事は、それ相応の批判を招きやすい。

しかし、『マトリックス』において、そうした批判はあまり見られない。CGの頻繁な使用という、1999年当時として非常に先進的な映像づくりを行っているにもかかわらず、作品全体として無理のない仕上がりになっているのだ。

よくよく注意して見ると、『マトリックス』は、映像効果の点で革新的なところは数多いが、画面の構成は比較的保守的なものに仕上がっている印象を受ける。登場人物たちの会話はミドル・クローズアップを多用する平凡なものだし、アクションシーンについても、多少の例外を除けば、よくあるカンフー映画の伝統的な撮影手法を正しく引き継いでいる。

つまり、『マトリックス』はその映像効果の面では革新的である一方で、その根底には伝統を重視する姿勢が垣間見えるのだ。古きを守り新しきを知る、この絶妙なバランス感覚が『マトリックス』を名作たらしめている。

加えて、この新旧のバランス感が、『マトリックス』を2017年現在から見てもチープに感じさせないSF作品に仕立てることに成功しているのだ。SF映画にはその時代に応じた最新の映像効果を多用する傾向があるが、その結果、その作品の価値が時代が下るにつれて急速に低下してしまうことがある。簡単にいえば古臭く、チープに見えてしまうことがあるのだ。しかし、『マトリックス』は「新しいのに、古い」。だからこそ、時代に関係ない普遍的な価値を獲得している。

 

最後に、『マトリックス』の内容にも触れておこう。この映画は、人工知能の発達した未来で、人間が完全に人工知能に支配された世界を舞台としている。全ての人間は培養液の中で成長し、人工知能燃料電池として働きながら、電脳世界の中で永遠に夢を見続けている。

皮肉なことに、この舞台設定は、1999年当時よりも、AIの劇的発展が現実味を帯びている今日の方が説得力を増すものとなっている。既に私たちの生活においてAIが存在感を示しつつあるし、ニュースを少し見ればAIの発展と活用が声高に叫ばれている。もはや私たちにとってAIはSFの存在ではない。AIとどのように付き合っていくかという問題は、現実の課題として私たちの頑然に存在している。『マトリックス』は、「古いのに、新しい」作品として再評価されるべきだろう。

マトリックス』の世界観は、私たちの未来が辿り着く最悪の可能性として捉えることができる。1999年当時において、これだけの先見の明をもった作品が作られていたことに、赤宮は改めて驚きを隠せない。

 

かつて「新しいのに、古い」作品だった『マトリックス』は、今や「古いのに、新しい」作品となっている。今こそ『マトリックス』を見直すときだ。

マトリックス (字幕版)
 

2017/10/16

*1:後に性転換し、現在はウォシャウスキー姉妹になっている。