日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

戦艦ポチョムキン/Battleship Potemkim(1925年)

戦艦ポチョムキン/Battleship Potemkim(1925年)監督:セルゲイ・エイゼンシュタイン

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Battleship Potemkin (1925) movie

パブリックドメイン。全編Youtubeで見れるみたいですね)

 

大海原に浮かぶ、戦艦ポチョムキン号。その航海を支える水兵たちは、辛い旅路を支える肉の塊が腐っていることを発見した。水兵たちは海軍士官や軍医に、肉が腐敗していること、このままでは食事が出来ないことを訴える。そこで軍医が肉を観察してみると、なるほど虫が湧いていた。しかし軍医はその事実を認めない。食べるぶんに何の問題もないから、きちんと食べるようにと言って、その場を去ってしまった。

その日の食事は肉のスープだった。しかし、腐敗した肉を目にしていた水兵たちは、当然それに手を付けることはない。その態度を問題視した士官は、乗組員たちを甲板に集合させ、用意された食事をきちんと食べるように要求する。しかし、一部の水兵たちはそれに従おうとしない。そして遂に、士官の堪忍袋の緒が切れてしまった。士官はライフルを持つ衛兵に水兵の射殺を命じ、衛兵は水兵に照準を合わせるのだが…

 

下準備なく見てしまえば、『戦艦ポチョムキン』という映画は、退屈で、よくわからない、謎の映画、といった印象を受けることになるだろう。映画好きがワーワー言ってるだけの、つまらない、くだらない、芸術ぶった映画だ、という感想を抱くことになるだろう。

しかし、見るべきポイントを押さえて『戦艦ポチョムキン』を見れば、あなたはきっとこれまでにない映画体験を味わうことになるだろう。この映画は、他の映画に見られない手法を採用しているために、一般の鑑賞方法とは少し違ったやり方で楽しまなければならない作品だ。

せっかくの映画体験なのだから、ロシアの天才、セルゲイ・エイゼンシュタインの世界を楽しんでいただきたい。そのためにも、今回の記事*1では、『戦艦ポチョムキン』を見るにあたり、抑えるべきポイントを紹介したいと思う。結論を先に述べておくと、それは「注視」である。

 

戦艦ポチョムキン』がどのような映画かといえば、雰囲気、流儀、メッセージを伴った映画だ、というしかない。

『日刊映画日記』の中でも人気記事である『グランド・ブタペスト・ホテル』で引用したように、Belodubrovskaya助教授は、傑作映画の条件としてストーリー、登場人物、世界観、雰囲気、流儀、メッセージ性を挙げている。ただし、彼女によれば、傑作映画であることは、必ずしも全ての条件を満たしていることを意味しない。魅力的な登場人物だけで傑作を作り上げてしまう監督も居るし、逆に、全ての条件をそれなりに満たしつつも、どうも傑作とは思えない作品だってあるだろう。

ただ、一般的な感覚からいって、「ストーリー、登場人物、世界観、雰囲気、流儀、メッセージ性」のうち、前三者のいずれも存在しない、という映画は少々想像しにくい。それを簡単な文章で言い換えれば、「ストーリーがなく、魅力的な登場人物は存在せず、独特な世界観もない」映画である。なんともつまらなさそうだ。

 

ところが、『戦艦ポチョムキン』こそが、「ストーリーがなく、魅力的な登場人物は存在せず、独特な世界観もない」映画なのだ。ソビエト政府主導で作られた史実を基にしたノンフィクション作品であるため、ストーリーらしいストーリーは存在しない。登場するのは有象無象の水兵や一般市民ばかりで、感情移入を誘うような登場人物は現れない。そんな平凡な人びとが織りなす作品に、奇特な世界観など存在するはずもない。

 

ではなぜ、このような『戦艦ポチョムキン』が、傑作映画たりうるのか。その秘密は、監督であるセルゲイ・エイゼンシュタインの、卓越した映像編集の技術にあると言うべきだろう。

戦艦ポチョムキン』の序盤において、流れてくる場面の一つ一つを注視してみると、ある不可解な事実に気づくはずだ。場面と場面の間に、連続性がほとんど存在しないようにみえるのだ。水兵が作業をしている場面を映したかと思えば、腐敗肉のスープを煮込んでいる映像が流れる。船内の機械がグルグル動いている場面が流れたかと思えば、次の瞬間には船外で引き上げ作業を行う映像が目の前にある。無関係な場面が淡々と流され、なぜか連続して一つのシークエンスが作られているのだ。

同時代、そして現代の作品においても、連続性は、映画作りにおいて最も重視されるものの一つだ。大人の男女が出逢えば、そこには二人の会話が存在するだろうし、家族の団欒が始まれば、食事を囲みつつ温かい時間が流れるだろう。こうした連続性は私たちの生活感覚と合致しているし、それは映画体験において観客を惹きつける魅力を伴う。
逆に、連続性を途切れさせるということは、観客の感覚を裏切り、彼らの映画への集中力を失わせることを意味する。一般に、作品全体にとって、この裏切りは良い結果をもたらさない。ある初心者向けの映画教本では、「連続性を途切れさせることは絶対にやってはいけない」との警告があった。

では、『戦艦ポチョムキン』は連続性を伴わない、ダメな作品なのだろうか? もちろん、そうではない。この作品の凄さは、一見すると連続性を伴わないようでありながら、連続性を伴うという、両義的な連続性を達成しているところにある。そしてこの両義性が、エイゼンシュタインの卓越した編集技術に由来する。

連続性を失っているように見せながら、連続性を確立するという手法こそが、『戦艦ポチョムキン』を傑作たらしめている要因だ。この手法は、場面と場面に意図的な繋がりを用意するだとか、動作の類似性を上手く用いることによって、全く繋がりの無い複数の場面の間に、連続性を表すことに成功している。なぜ、水兵の作業と、腐敗肉のスープとに連続性が生まれてしまうのか。

 

こればかりは、自分の目で確認してほしいとしか言いようがない。 

戦艦ポチョムキン【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

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2017/10/9 

*1:書くところが無くなったのでここに概要を書く。『戦艦ポチョムキン』は、第一次ロシア革命20周年を記念して作られた、れっきとしたプロパガンダ作品だ。しかし、その事実がこの作品の芸術性を損なうことはない。