日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

ハワイ・マレー沖海戦(1942年)

ハワイ・マレー沖海戦(1942年)監督:山本嘉次郎


The War at Sea from Hawaii to Malay ハワイ・マレー沖海戦 (1942)

地方の農村で育った友田義一少年は、飛行機好きが高じ、攻撃機の操縦士を志すようになる。やがて予科練に入校した友田であったが、日々の訓練は厳しい。それでも仲間たちと励まし合い、海軍精神を叩き込まれながら、操縦士を目指して努力を続けていく。

訓練を耐え抜き、晴れて操縦士となった友田。日本と国際社会との軋轢が深まる中、ついに1941年、日米開戦の時を迎える。航空母艦に乗り込み、和気あいあいとした生活を送りながらも、友田たちは迫る出撃に向け、着々と準備を整えていく。…

 

1942年製作ということから察する人も居るだろうが、『ハワイ・マレー沖海戦』は日本政府、当時の海軍省によるプロパガンダ映画だ。1941年の真珠湾攻撃から1周年を記念し、戦意高揚を目的として制作された。監督は山本嘉次郎黒澤明の師匠ともいわれる名匠だ。また、特撮監督にはあの円谷英二(『ウルトラマン』『ゴジラ』)が名を連ねている。

物語は、ごく平凡な少年友田が、一念発起して操縦士を目指し、同郷の先輩である立花に相談するところから始まる。彼には特段優れた才能があるわけでもないが、持ち前の純粋さと、予科練で叩き込まれる海軍精神を頼りに、少しずつ一人前の軍人として成長を遂げていく。そして遂に、操縦士という夢を叶える。『ハワイ・マレー沖海戦』は、典型的な青春モノのプロットを踏まえた作品だ。予科練や海軍の生活を通じて成長していく友田の姿を見た子どもたちは、彼を通じて予科練や海軍にも憧れを抱くようになったことだろう。

加えて、友田が乗り込み、米軍を果敢に攻撃していく姿も、多くの人びとを戦闘機への憧れへと誘っただろう。戦闘シーンは円谷製の精巧なミニチュアで描かれ、およそ本物と見分けがつかないレベルに達している。こうした戦闘シーンは、見るものを興奮させてやまない。

戦前映画の巨匠である山本と、後に特撮の神と言われる円谷の力量が相まって、非常によく出来た作品だと言わざるをえない。ではなぜ、赤宮はここで、「言わざるをえない」という、少々消極的な表現を使うのか。赤宮は、この作品を手放しで褒めることはどうしてもできない。それは、この作品の根底にある、戦意高揚を目的としたプロパガンダという性質を、どうしても看過することが出来ないからだ。

 

『ハワイ・マレー沖海戦』は、面白くも恐ろしい映画だ。

よくできた映画というのは、「この世界に入ってみたい」と思わせる魅力を備えることがある。この感覚は、恋愛映画を見た後に「こんな恋愛をしたい」と思うとか、ヒーロー映画を見た晩に、スーパーヒーローと自分を重ね合わせ、翌朝超人的な力を手に入れていると夢想する、そうしたものに近い。『ローマの休日』のような恋愛がしてみたい、『スパイダーマン』みたいに大都市のビルを飛び回りたい、ああいった感覚だ。飛行機乗り、ということでいうと、『トップガン』が近い。

この点、『ハワイ・マレー沖海戦』は、その種の魅力を備えている。予科練や海軍での訓練シーンは苦しそう、辛そうではあるが、仲間と一緒に乗り越えていくその姿にはどこか惹かれるところがある。立派な操縦士となり、故郷の人々から無事と活躍を祈られる主人公の姿を見ていると、自分もああいう風に人から認められたい、と思うところがあるかもしれない。描かれる場面の一つ一つが魅力的だ。1人の観客として、思わず「この映画の一員になりたい」と感じさせる瞬間がある。

しかし忘れてはならないのが、『ハワイ・マレー沖海戦』がプロパガンダ映画であるというところだ。太平洋戦争開戦から1年が経った1942年、国民を戦争に駆り立てるために作られた映画だということだ。先に述べたこの映画の魅力というのは、全て戦争の遂行という一点に向けて意図的に作られている。

加えて、この映画が1942年に作られたということもあり、物語は極めて気分が高揚した時点で終了する。他の太平洋戦争映画でよく見られるような、悲劇的な結末などは全く存在しない。時期の関係で、日本軍の良いところだけを取り出すことができ、それらをエンターテインメントとして映画化した作品なのである。

この映画を見て、映画のような青春に憧れ、戦地に赴いた人びとも居るのかもしれない。

 

赤宮は、戦争の是非や、日本軍の姿勢についてここでとやかく言うつもりはない。『日刊映画日記』は映画について書くブログだ。

しかし、『ハワイ・マレー沖海戦』から得られる教訓は、映画を語る上でどうしても記さなければならない。それは、映画というエンターテインメントが、観客を楽しませることを超えて、特定の意図を持って運用されることがあるということだ。

プロパガンダ映画というと、どこかつまらない作品のような印象を受ける。しかし、その感覚は必ずしも正しくない。プロパガンダとエンターテインメントは両立するのだ。面白い、見ていて楽しい、プロパガンダ映画というものは成立する。何か特定の方向に人びとを導くために、エンターテインメントを利用することは可能なのだ。

 

映画を見る上で、様々な教訓、感想を得ることがある。しかしそれは、もしかすると監督、その背後の人びとによって、意図的に惹起されているものなのかもしれない。

SNS、テレビ、その他様々なメディアを通じて、私たちは日々、エンターテインメントに触れている。そこで様々な印象を受けたり、自分なりの感想を持ってみたりしている。しかし、そうした印象や感想は、エンターテインメントの作り手が意図したものなのかもしれない。

もっと、自覚的にならなければならない。『ハワイ・マレー沖海戦』は、赤宮にそんな感想を抱かせた作品だった。*1


Public domain ハワイ・マレー沖海戦 ('42) 1-8

著作権切れなので、Youtubeに全部上がってます。)

 2017/10/4

*1:この感想すら、『ハワイ・マレー沖海戦』によって与えられている。エンターテイメントを鑑賞している以上、エンターテイメントから独立して意見を持つことはできないのだろう。