日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

姿三四郎(1943年)

姿三四郎(1943年)監督:黒澤明


姿三四郎(プレビュー)

柔術家を目指して上京してきた青年、姿三四郎は神明活殺流に入門する。その同日、神明活殺流の師範たちは、聞き慣れない「柔道」を掲げる修道館の矢野を討つべく、数人がかりで闇討ちを行う。しかし矢野の腕前は凄まじく、神明活殺流の実力者たちは彼1人の前に尽く投げ飛ばされてしまった。三四郎は矢野の強さに驚愕し、その場で彼に入門する。

時が経ち、三四郎は柔道家として比類なき実力を得るようになっていた。しかし若さゆえか、三四郎は柔道の技術を街中の喧嘩に向けるばかり。矢野は、三四郎の柔道への態度を厳しく戒める。三四郎は、矢野への尊敬の念を抱きつつも、自分の実力を認めてもらえていないようで、どうも矢野の言葉をそのまま受け入れることは出来ない。口論の結果、三四郎は庭の池に飛び込み、自分が死をも覚悟していることを示そうとする。矢野は三四郎を止めようとしない。夜も更けてきて、三四郎の身体は徐々に冷えていく。強情な三四郎は、沼から突き出た一本の木杭に捕まったまま、そこを動こうとしないのだが…

 

「世界のクロサワ」こと、黒澤明の初監督作品。映画について全く知らない人でも、「クロサワ」の名前を知っている、という人は多い。世界では黒澤と並んで評される小津や溝口が、現代日本では必ずしも十分な知名度を得ていないのに対して、黒澤明がここまで知名度を得ているのは、理由こそわからないが面白い現象だと感じている。

(本題とは関係ないが、黒澤明については、1994年に京都賞を受賞した時の記念講演録が無茶苦茶面白いので必見だ。「天才映画監督」のイメージが先行する黒澤だが、実は25歳まで絵描きの半ニートだったこと、定職を得るという現実的な理由から映画の道を選んだことなど、意外な物語の数々が、本人自ら軽妙に語っている。)

黒澤 明 | 第10回(1994年)受賞者 | 京都賞

 

そんな黒澤の初監督作品、『姿三四郎』であるが、これまたべらぼうに面白い。

物語の1つの軸は柔術と柔道の覇権争いであり、師範矢野の下、柔道の代表として闘う姿三四郎と、ライバル柔術家たちの争いが描かれていく。詳しい人が見たら分かるのかもしれないが、柔道柔術ド素人の赤宮からすると、正直両者の違いははっきり分からない。それほど違いがないようにも見える。それでも、柔道と柔術が、警視庁からの武術指南役を争っている、という対立構図が分かりやすく描かれているので、両者が対立している理由がはっきりしている。観客は「ああ、勢力争いなんだなあ」といった感じで、漠然と見ていれば話の筋は掴めるだろう。

とはいえ、こちらの軸は全体の3分の2ほど過ぎたあたりで無事収束していく。本作品内において三四郎は、圧倒的な強者として描かれている。したがって、彼が臨む戦いにおいて、その敵は柔術代表ではなく、自分自身、ということになる。事実、彼は劇中の戦いにおいて、相手が強いから勝てないかもしれない、という言い回しをしない。勝てないかもしれない、という気持ちを漏らしても、それは自分の中に原因があるのであり、それさえ克服できれば勝てるという、この上なく強力な存在として君臨しているのだ。

ここで、物語のもう1つの軸が明らかになってくる。それは三四郎の成長である。ここでいう成長とは、柔道の実力を意味しない。物語が始まってすぐ、三四郎の師匠である矢野は、「お前の柔道の実力は自分より上である」ことを率直に認める。その上で、矢野は三四郎の態度を叱責し、「私とお前の柔道には天地の差が存在する。お前の柔道には人間の道が足りない」と説くのである。

三四郎と矢野の対話は、極めて序盤に展開されながら、その後の展開を完全に決定づける、重要な役割を果たしている。その後、柔道家の戦いが展開されていくにもかかわらず、矢野の言葉は、その勝負において三四郎の実力を疑っていない。しかし、その上で矢野は、何か別の要素、戦いにおける大切な要素を指摘するのだ。矢野の柔道にはそれがあり、三四郎の柔道にはそれがない。

矢野は、その大切な要素を、「人間の道」として、漠然と指摘するにとどまっている。三四郎はそのあやふやさに反発するが、その後、庭の池から見た花の可憐さ、満月の美しさを目の当たりにして、その曖昧な何かを、人生を始めるきっかけを得る。三四郎が何かを、人生を理解する瞬間の花の描写は美しい。黒澤が何を言いたいのか、言葉で理解出来なくても、観客は、あの花の映像を通じて、直感的に「人生の道」を理解できるのだ。

黒澤の描いた、非常に印象的なシークエンスであるが、恐るべし、これはまだまだ物語の序盤なのだ。あの花と満月から、三四郎の人生の道は始まった。同時に『姿三四郎』の物語が始まるのである。

 

文句なしの面白さを誇る『姿三四郎』であるが、いささか疑問を感じるところがある。それは中盤で散見されるナレーションだ。これによる場面の大幅な省略は、三四郎の重要な心理局面に関わるということもあって、なぜこれを行ってしまったのか、どうも納得出来ないところがあった。

調べてみたところ、『姿三四郎』は再上映の際、関係者以外の者が独断でフィルムをカットしており、現在流通しているものはオリジナルから20分ほど映像をカットされたものだそうだ。それを埋め合わせるためにナレーションによる説明がなされているらしく、それならば合点がいく。仕方ない、というしかない。

 

多少の省略があるにせよ、それでもこの作品が魅力ある、観客を惹きつけるものであることに変わりはない。黒澤明の監督初作品、見ておいて損はない一作である。

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志村喬を見ると「クロサワ映画だなぁ」って安心する)

姿三四郎 [東宝DVDシネマファンクラブ]

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2017/10/3