日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

残菊物語(1939年)

残菊物語(1939年)監督:溝口健二


残菊物語 デジタル修復版

二代目尾上菊之助は、名門歌舞伎役者の家系に育った。偉大なる父、菊五郎の七光りのお陰で、順調に歌舞伎界のスターへの道を歩んでいる。ただ、菊之助本人は自らの低い実力と、周囲からの高い評価のギャップに苦しんでいた。しかし、そのギャップを埋めるほどの努力はせず、毎日夜遊びをし、演技の練習も疎かにしてしまっていた。

ある日菊之助は、偶然にも、自分を褒めそやしていた人びとが、こぞって自分の演技を酷評していることを知ってしまう。芸者遊びをする気も起こらず、肩を落として家に帰る菊之助。家の門の前で偶然、使用人のお徳とはち合わせる。菊之助は、両親から夜遊びを咎められることを恐れて、お徳を連れて散歩に乗り出した。

散歩をしながら、お徳は、先日菊之助の公演を観劇したことを打ち明ける。自分の演技はどうだったか、と尋ねる菊之助。最初は返答を渋ったお徳であったが、菊之助の熱意に負け、自分のありのままの気持ちを打ち明ける。ダメな演技だった。遊びを控えて、もっと演技の勉強に勤しんでほしい、それが私の願いです。…

お徳の言葉を聞いた菊之助は、この上ない喜びを感じた。いつもお世辞を言われてばかりの菊之助にとっては、ありのままの評価を伝えてくれたことが、この上なく嬉しかったのだ。この出来事をきっかけに、歌舞伎役者菊之助と、使用人お徳の関係は深まっていく。しかしそれは同時に、期待のスター菊之助と使用人との間のスキャンダルの噂が流れてしまう。お徳はお暇を言い渡され、菊之助の前から姿を消してしまった。…

 

 

 

見事の一言。

演技や人生経験を経て成長していく主人公と、それを献身的に支える相手役との関係性に感動した。

『残菊物語』は、とにかく長回しのシーンが多い。一発撮りで3〜4分使うシーンが数多く存在する。映画というメディアで、そこまで時間と間を贅沢に使って良いものなのか、と思わずにはいられない。そして、そういったシーンのそれぞれが、これまた細かいのだ。それぞれ場面で、数人ないしそれ以上の人びとが、シネマティックに右往左往している。何らかの雑用をこなしたり、あるいは仕事をサボったり。歌舞伎の現場もこのような感じなのだろうなと、見たこともないのに感じさせるリアリティがある。だから、長回しの冗長さは感じられない。ずっと同じカメラから途切れること無く映像を見ているはずなのに、飽きない。視点を変更させてお茶を濁そう、といった誤魔化しがこの映画には存在しない。この映画では、他にもオン・オフスクリーンの使い分けだとか、トラックによる人物の移動の追っかけにも感動させられるだろうが、「長回し」こそが『残菊物語』の核心だと赤宮は思う。

長回しが一番光るのが、クライマックスのとあるシーンだ。二人が積み重ねてきた関係性を見てきた者であれば、感動せずにはいられない数分間だ。もちろんベタベタな、誰にでも予想できそうな結末である。しかし、そうした感動を、登場人物たちと同じ時間間隔をもって体感できるというのは、他の映画にはまずない体験ではないだろうかと思う。

 

諸々を加味しても、決してハッピーエンドの物語とは言い切れない。戦中期に作られた、ビターエンドの傑作である。

 2017/9/26