日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

レディ・マクベス/LADY MACBETH(2016年)

レディ・マクベス/LADY MACBETH(2016年)


LADY MACBETH - TEASER TRAILER [HD] - IN CINEMAS APRIL 28

 

19世紀後半の英国郊外。若き女性キャサリンは、初老の男アレクサンダーと結婚するが、そこに愛はなかった。アレクサンダーはキャサリンに対して、厳しい日課を与えて束縛し、彼女の自由を認めない。また、アレクサンダーの父ボリスはキャサリンが子を授からないことに腹を立て、彼女に辛く当たる。キャサリンが妊娠しなかったことには理由があった。当のアレクサンダーが、キャサリンに対し、性的興奮を抱けなかったのだ。

アレクサンダーとボリスが、暫くの間、所用で邸宅を離れることになった。家に残ったのは、自分と使用人たちだけ。キャサリンは、いつものドレスより楽な格好をして、野に出て散歩して、初めての自由を大いに謳歌する。今日も気持ちよい、自由な朝だ…と思った瞬間、馬小屋から悲鳴が聞こえてきた。使用人の1人、アンナの声だ。キャサリンは急いで馬小屋に向かう。そこには、農場で働く男たちに囲まれた、裸のアンナの姿があった。邸宅の女主人として、男たちを叱責するキャサリン

その後、いつものようにキャサリンが野原を散歩していたところ、先日叱責した男たちの1人、セバスチャンと遭遇する。先日の一件以来、どこかセバスチャンのことが頭から離れないキャサリン。そうした思惑を汲み取ってか、セバスチャンは夜の邸宅に忍び込み、半ば強引にキャサリンと関係を持とうとする。キャサリンは抵抗する素振りを見せたが、その腕の力はやけに弱々しい。

場所を問わず交わり続けるキャサリンとセバスチャン。しばらくして、ボリスが邸宅に戻ってくる。ふとしたきっかけから2人の関係を知ったボリスは、セバスチャンを痛めつけ、拘束する。セバスチャンの解放を願うキャサリンだったが、ボリスが許すはずもない。ボリスはキャサリンの頬を打つ。

キャサリンは、人が変わったような落ち着いた表情を浮かべて、ボリスと食事を共にする。穏やかな表情で、セバスチャンを許すよう再度願うキャサリン。しかしやはり、ボリスはそれを許さない。怒ってグラスを壁に投げつけ、席を立つボリス。そのまま部屋を出ていってしまった。その様子を見届けたキャサリンは、美しい横顔を浮かべながら、丁寧に、1つの椅子をドアの前に運ぶ。椅子の背もたれが、ちょうどドアノブにひっかかって、このままでは、ボリスがドアを開けることはできない。…

 

ウィスコンシン大学マディソン校が擁する映画館の1つ、マルクィー・シネマでは、毎週複数の作品が、有志の学生サークルの手により上映されている。大学の施設なので、もちろん入場料は無料である。赤宮も足繁く通っている。

そんなマルクィー・シネマ恒例の前置きとして、映画の上映前、担当の学生により観劇上の注意事項が説明される。内容はまあ、いわゆる「NO MORE 映画泥棒」みたいなものなのだが、これが毎回微妙に変わって面白い。そして自由である。先日の『スパイダーマン ホームカミング』の場合だと、「マーベルを静かに見るなんてナンセンス!皆で楽しもうな!」と言われ、観客が「イェア!」と返答する、なんとも心地のよい空間が生まれる運びとなった。

だからこそ、今回の『レディ・マクベス』において、「必ず、お静かに願います」と言われた時、赤宮は少々面食らった気持ちがした。比較的自由な映画体験が許されるアメリカにおいて、そこまで言わせる理由がある映画なのか、と思ったのだ。

 

『レディ・マクベス』は、注意事項通り、見る側にも沈黙が要求される映画だった。とにかく、静かなのだ。上映直後、聖歌をバックに進むシーンを終えれば、その後はひたすら自然音と生活音だけで映像が進む。俳優の息遣いの一つ一つがここまで聞こえる映画も珍しい。

音だけではない。映像の撮り方も静かだ。固定撮影を中心に構成された序盤の映像は、静かな生活音と合わさって異常なほどの緊張感を生んでいる。ショットの切り替えを意図的に遅くとっているのだろう、ショットごとの緊張感が異様なまでに長続きする。そうして、四角いスクリーンでじっくりと切り取られたシーンの一つ一つは、主演のフローレンス・プーの幼さの残る美しさと合わせって、あたかも絵画のような洗練された印象を与える。特別なことはしていない。ただただ静かで、緊張感があるのだ。

そして、そうした沈黙があるからこそ、一度均衡が破られれば、演出効果は増大する。この、均衡の破り方が非常に上手い。観客が固定撮影に慣れ、『レディ・マクベス』は固定撮影の映画なんだな、と思い始めた辺りで、その思い込みを裏切るように手持ち撮影の映像が入ってくる。突然ブレ始める映像を見た観客は、ようやく得た安心感を、さも簡単に裏切られてしまう。次はいつ画面が動き出すのか、心の何処かで、常に心配しながらスクリーンを注視することになる。

もちろん、固定と手持ち、撮影形式の問題だけではない。この映画は、静けさという点でも安心を与えない。実のところ、僅か二つのシーンでしかBGMが採用されていない。映画を見るときというのは、BGMが当たり前に流れてくる、そのうちどこかから流れてくるだろうと思うものだ。『レディ・マクベス』はその思い込みを逆手に取り、絶大なサスペンスを生み出している。生活音と自然音に任せ、徹底的に音を出さない姿勢を貫く。しかし、ここしかない、ここでしか出さないという場所で、圧倒的なBGMを流すことによって、その効果を最大化することに成功しているのだ。そして、一度裏切られてしまえば、以後いくら静かな映像が流れようと、そこに安心することができなくなるのだ。

鑑賞後、映画の内容を振り返ってみると、実のところ、とりたてて突飛な物語というわけではない。どこかの昼ドラでありそうな話、かもしれない。しかし、鑑賞中、自分が感じた緊張や不安、終盤の展開での、胸が締め付けられるような不快感、それを思い出せば、この作品を「どこにでもありそうな作品」と片付けることは出来ない。これこそが映画体験なのだろう。日本での公開はまだ先のようだが、ぜひ劇場で鑑賞するべき作品だ。

 

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(恋人同士で見るには向いていない作品かもしれない…察してください)

 

ムツェンスク郡のマクベス夫人

ムツェンスク郡のマクベス夫人

 

(原作。) 

2017/9/23