日刊映画日記

赤宮です。楽しく映画を語ります。ネタバレは少なめ。

雄呂血(1925年)

雄呂血(1925年)監督:二川文太郎

 

Talking Silents3「雄呂血」「逆流」 [DVD]

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主人公である久利富平三郎は、師匠の誕生日の宴において、酔っ払った上級武士から喧嘩をふっかけられる。「武士らしく」ある程度は我慢していた平三郎だったが、「上級武士である俺の酒が飲めねえのか!」などとエスカレートしていく上級武士の言動に対して、少しずつ苛立ちを隠せなくなってしまう。他方、そうした平三郎の態度を不快に思った上級武士は、猪口に入った日本酒を浴びせかけるという行動に出る。平三郎の堪忍の尾が切れた。殴りかかり、つかみ合い、両者相争う喧嘩が始まる。


2人の様子を客観的に見ていた観客からすれば、平三郎の怒りはまっとうなもので、責められるべきなのは上級武士だ。しかし登場人物たちからすればそうではない。上級武士と平侍が喧嘩をしていれば、本当の原因が何であれ、「どうせ平侍が悪いんだろ」ということになる。事の成り行きを見ていた同級生たちは、「平三郎が悪い」と証言する。師匠はそれを疑わない。


「雄呂血」全編にわたって、同じような場面が続く。何らかの不条理であるとか、悪い行いが発生して、平三郎はそれに抗う。結果として、平三郎を交えた争いが起こる。幾人もの役人がやってきて、暴れる平三郎を抑える。「俺は悪くない!」と平三郎が叫ぶ。抵抗も虚しく、平三郎は捕縛され、牢に送られる…この流れが何度も繰り返される。


その過程で、平三郎は「正義」を口にする。自分の行動は正義にかなっているはずなのに、どうして裁かれなくてはならないのか。上級武士との喧嘩は、その無礼な行為が原因だった。後に起こる町の侍たちとの喧嘩は、師匠や想い人の名誉を守るためのものだった。だがそうした意図は斟酌されるものではない。平三郎は自分の中の正義と、他人が自分に対して抱く悪魔じみた印象と、そのあいだのギャップに苦しみ続ける。

 

平三郎はひたすらに誠実で、正義に忠実だ。誰もが思い描くような、理想的な侍として行動する。しかし、人びとが、社会が、環境がそれを許さない。疲れ果てた先に、平三郎は悪魔のささやきを聞く。目の前には、平三郎を可愛がる悪人たちによって拉致されてきた、恋い慕う芸者が転がっている。「襲っちまえよ」と平三郎の中の悪魔が囁く。葛藤する。世界は悪ばっかりだ。だからやっちまって大丈夫だ、と。

 

結果として、平三郎はその声に抗った。世界が悪であろうと、自分の中の正義に反することは出来ない。平三郎は無力な女性を手篭めにすることなく、建物の裏口から逃した。この瞬間、平三郎の運命は決まった。悪にまみれる(ように見える)世界の中で、自分だけが正義であろうとすれば、たどり着く結末は自ずと定まってくる。

 

最終盤、平三郎は刀を振るい、大立ち回りを演ずる(阪東妻三郎が凄すぎるので必見)。
自分が犯した罪に気付いたその瞬間、平三郎の手から、大刀が滑り落ちる。その表情が、なんともいえない迫力がある。正義と悪魔のギャップで苦しんでいた平三郎が、自分が悪魔なのだ、と理解してしまった瞬間、彼は諦めを知った。

2017/9/12